2011年11月3日木曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙2章16節


人は律法のわざによって義とされるのではなく、
イエス・キリストの信仰によって義とされることを、
私たちは知っています。
(「ガラテアの信徒への手紙」216節)
 
  
もしも救われたいのなら、
救いは行いのおかげではなくて、
私たちが御子を通して活きるようになるために
神様がその独り子を世に遣わされたおかげであることを覚えなさい
(「ヨハネの第一の手紙」49節)。
御子は十字架につけられ、あなたのために死なれました。
御子は私たちの罪を御自分のからだで担い、十字架の木へと運ばれたのです
(「ペテロの第一の手紙」224節)。
(中略)
律法は、罪人である私たちに対して罪を示し、おそれとへりくだりの心を起こし、
こうして私たちが義とされる用意を整えて、キリストの御許へと追い立てます。
神様は御言葉を通して御自分が優しい父親であることを知らせてくださいました。
神様は、私たちの行いなしに
(私たちは自分の行いによっては恵みの報いを受けることができないからです)、
キリストのゆえに、賜物として、
私たちに罪の赦しと義と永遠の命を与えたいと望んでおられます。
ただで恵みの賜物をすべての人に分け与えるのは、
賛美されるべき神様ならではの御性質なのです。
しかし、自分の行いに頼り、賜物を報酬として受け取ろうとする者は、
神様からその栄光を奪ってしまいます。
このような人々を信仰へ導くために、
神様はあらかじめ律法を与えなさったのでした。
それは、律法があたかも稲妻や雷鳴のように、
実に硬い「岩々」を恐れさせ、砕くためなのです。