7月1日
(「出エジプト記」20章3節)
すべての知恵は、あたかも泉から湧き出るようにして第一戒を始めとして流れ出てきます。この戒めこそ真の太陽です。この光の下で知恵ある人は誰でもはっきりものが見えるようになります。なぜなら、神様を畏れ信じる人は知恵に満たされており、全世界の先頭に立ち、すべての言葉や行いの主人となり、あらゆる教えと神様の御前で受け入れられる命とを裁く者だからです。ところが、第一戒をもたず神様を畏れず神様に信頼しない人はまったく愚かで、何をやってもうまくいきません。
7月2日
信仰によって私たちは、この世界が神様の御言葉によって造られたのであり、したがって見えるものは現れているものから生じたのではないことを理解します。
(「ヘブライの信徒への手紙」11章3節)
人は、聖書の「初めに神様は天と地を造られた」という最初の言葉の意味がわかるようになるまでは実は死んでいるのです。そして人は、たとえ千歳まで生きながらえたとしても、それを完全にわかるようにはならないでしょう。モーセのテキストは明瞭であり、真実を示しています、「神様は『光あれ』と言われました。すると光がありました」。つまり、御言葉は光より前に存在したのです。光は御言葉を通して存在したからです。それと同様に、御言葉は他のすべての被造物より前に存在しました。それら被造物は、モーセが書いているように、御言葉を通して存在したのです。
7月3日
サラはキルヤト・アルバ、すなわち、カナンの地ヘブロンで死にました。アブラハムは来て、彼女のために嘆き悲しみました。
(「創世記」23章2節)
クリスチャンを信仰と愛以外のものを基準にして評価してはいけません。信仰については、クリスチャンは地上では何の心配もしていません。愛については、すべてがクリスチャンに関わってきます。神様は、福音によって人間らしさを私たちから取り去ってしまおう、などとは望んではおられません。神様は「人間らしさ」を人の中に大切に残し、一新なさいます。父が息子を愛し、妻が夫を愛するのは自然なことです。クリスチャンは愛する者が幸せならば共に喜び、不幸ならば共に悲しみます。
7月4日
私たちは見栄えのする[2]部分[3]を覆う必要がありません。神様は身体を見劣りのする部分に結び付けて、よりいっそう大切に扱っておられます[4]。それは、身体の中に分裂がなく、それぞれの部分が互いに配慮しあうためなのです。もしもある部分が苦しめばすべての部分が共に苦しみ、もしもある部分が尊重されればすべての部分が共に喜びます。あなたたちはキリストの身体であり、各々がその部分なのです。
(「コリントの信徒への第一の手紙」12章24~27節)
私たちの肉体の肢体は、クリスチャンが自分の行いによって自分のためだけではなく他の人のためにもどのように仕えるべきかについて、その奉仕のわざによって模範を示してくれています。これよりもすぐれた例を私たちは見出せません。もしも私たちがこの模範に従って行うならば、私たちの間にいがみ合いや分派が生じることは決してないでしょう。
7月5日
5羽の雀が2アサリオンで売られているではありませんか。しかもそれらのうちの1羽たりとも神様の御前で忘れ去られてはいません[5]。その上、あなたがたの髪の毛もすべて数えられているのです。恐れてはいけません。あなたがたは沢山の雀よりもかけがえのない[6]存在なのです。
(「ルカによる福音書」12章6~7節)
心配や悩みをすべてひとつに集めて、まるでそれが燃えさしであるかのように、神様の無限の愛と配慮に満ちた海に沈めてしまいましょう。そして、それら心配事を些細なこととみなして話し合いましょう。