「模範か、救い主か」
あなたがたが救われたのは、恵みにより、信仰によってです。
それはあなたがた自身から出たものではなく、神様の賜物なのです。
(「エフェソの信徒への手紙」2章8節)
神様について「誰に対しても善く優しく譲歩する父親」といった
誤ったイメージをもってしまうと、罪が意味を失ってしまいます。
「自分にして欲しいことを他の人たちにもしなさい」という黄金律に
キリストのメッセージは集約できると主張されることがあります。
それによればキリストは立派な模範にすぎなくなります。
「この方と同じように行いなさい、そうすれば救われますよ」
という考え方だからです。
しかし思いや言葉や行いで神様の戒めを完璧に守れるかどうか試してみれば、
それが不可能であることがわかることでしょう。
これは溺れている人に向かって
「自分で自分を救いなさい」と命じるようなものだからです。
神様が憐れみ深いお方であり
私たちのために十字架で死なれた御子を通して
人間との平和な関係をすでに用意なさっている
という福音のメッセージを聴くのは慰めをもたらします。
たしかに神様の律法は私たちの罪を明るみに出すものですが、
その一方では、恵みが罪の赦しを叫び続けてくれています。
真理は罪人の死を要求します。
しかしその一方では
「恐れるな、あなたの罪は帳消しにされているのだから」
という平和の御言葉が罪の呵責に苦しむ人々に宣べ伝えられています。
神様の聖さは義を要求します。
しかしその一方では
「キリストを信じる者は一人として地獄には落ちず、永遠の命を持つことになる」
という声を神様の愛があげてくれています。
(祈り)神様、私たちが罪に魅惑されて、
その罪がたいしたものではないかのように錯覚してしまうとき、
どうか私たちの眼差しをゴルゴタの十字架へと向けてください。
それによって、
あなたが罪に対してどのような態度を取られるか
私たちが思い起こすようになるためです。
また罪が私たちをおびえさせ絶望させるときには、
すべての罪が赦されたことを知るために
私たちの眼差しを十字架につけられた救い主へと向けてください。アーメン。
(関連聖句)「ガラテアの信徒への手紙」3章1~14節