「命と死の中で」
私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは勝利です。
(「フィリピの信徒への手紙」1章21節)
ゲーテは幸福な境遇に生まれ、
すでに幼少の時には才能溢れる人物でしたが、
キリストを信じていませんでした。
晩年に彼はこう言っています、
「私の人生を振り返ると、
本当に満足して生活できたのは4週間もなかっただろう」。
もう一人の才人ヴォルテールは死の床でこう嘆きました、
「私はこうして神と人とに見捨てられて死なねばならないのだ」。
パウロはローマの牢獄からフィリピにいるキリスト信仰者たちに向けて
こう書きました、
「私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは勝利です」。
上述の二人に比べて、
パウロの生と死に対する態度はどれほど異なっていることでしょうか!
パウロには、
彼のために死んで彼を使徒として召してくださった救い主への
燃えるような愛がありました。
彼は救い主のゆえに、大きな苦しみにも耐えることができました。
すでにこの世にいる間に、
彼は信仰を通してキリストへと結び付けられていました。
パウロは、死が彼をこの「涙の淵」から引き離す時、
キリストが彼に決して朽ちない義の冠、栄光、絶えざる喜びを
与えてくださることを確信していました。
私たちキリスト信仰者には皆、この救いの幸いなる希望があります。
それゆえ私たちは、救い主のために活き、お仕えするのです。
主が私たちをこの世の人生から天にある真の故郷へと招くとき、
この希望は成就します。
なぜなら、私たちには
(祈り)
主よ、あなたに向かって活きることができるように私をお助けください。
私がこの世での使命を果たした時、美しい天国へとお連れください。アーメン。
(関連聖句)「フィリピの信徒への手紙」1章21~30節
[1]至聖所とは、
旧約聖書においてはイスラエルの人々にとって神様と出会える最も神聖な場所でした。
そこには一年に一度だけ、大祭司一人だけが入れることになっていました。
それに対して、キリスト信仰者は誰であれ、
この特別な至聖所にイエス様の犠牲の血を通して入ることができるのです。(訳者註)