「喜びの油」
神様、あなたの神様は喜びの油をあなたに注がれました。
(「ヘブライの信徒への手紙」1章9節より)
イエス様と喜びとは一体になっています。
たしかにイエス様は「痛みの人、病を知る人」(「イザヤ書」53章3節)
ですが、それでも
イエス様の御名には祝福された喜びの心が分かちがたく結びついています。
イエス様がこの世にお生まれになったのは
「すべての民にとっての大いなる喜び」(「ルカによる福音書」2章10節)
でした。
神様は喜びの油によってイエス様をその職務へと正式に任命なさいました。
「主なる神様の御霊が私に臨みました。
福音を宣べ伝えるために主が私に油を注がれたのです」
(「イザヤ書」61章1節より)とイエス様は言われました。
目が見えるようになったバルテマイ(「マルコによる福音書」10章46~52節)や、
七つの悪霊から解放されたマグダラのマリア(「マルコによる福音書」16章9節)、
あるいは、
イエス様の御衣のふさにさわって癒された女(「ルカによる福音書」8章43~48節)
に私たちが実際に会ったなら
「イエス様はその時代の人々にたくさんの喜びをもたらしてくださった」
と私たちは証言することでしょう。
福音が私たちの心を開くとき、私たちも祝福された喜びを体験します。
預言者イザヤは
「あなたがたは喜びをもって救いの井戸から水を汲むことになります」
(「イザヤ書」12章3節)と予言しました。
ゲッセマネの園へと向かう途中、
イエス様は感謝の賛美歌を口ずさんでおられました。
「私がこれらのことを話したのは、
私の喜びがあなたがたのうちにあって、
あなたがたの喜びが満ちあふれるためです」
(「ヨハネによる福音書」15章11節)、
また
「今あなたがたは悲しんでいます。
しかし、私は再びあなたがたに会います。
そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。
その喜びをあなたがたから取り去る者はいません」
(「ヨハネによる福音書」16章22節)
とイエス様は言っておられます。
救いの喜びは
移り変わる感情の中にではなく、
イエス様が備えてくださった救いの中にこそあります。
この喜びが私たちの力の源です。
この世での人生の旅が終わる時、
神様は私たちの目から涙をすっかり拭い去ってくださいます。
(祈り)イエス様、あなたは私の喜びです。
私がいつでもあなたにあって喜んでいられるように助けてください。
アーメン。
(関連聖句)「ヨハネによる福音書」15章9~16節