1月16日
あなたは平和の中にあなたの父たちのところへ行くことになります。そして高齢に達した後、葬られることになります。
(「創世記」15章15節)
「自分の父たちのところへ行く」ということは、何もないところへ行ったり消え失せたりすることではありません。これはこの聖書の箇所が「父たち」について、つまり「同じ信仰、同じ希望、同じ苦難、同じ言葉をもっていた人々」について語っているということからもはっきりします。私たちは自分たちの本当の父たち、同じ「祖国」の人たちのところへ行くのです。私たちは悪霊や敵を置き去りにして「父たち」のところへ行けるのです。
1月17日
主なる神様は人に命じて言われました、「あなたは園のすべての木から自由に取って食べてもかまいません[1]。しかし善悪についての知識を与える木からは取って食べてはなりません。それを取って食べる日、あなたは必ず[2]死ぬことになります」。
(「創世記」2章16~17節)
この命令を破ることによって、アダムは私たち皆を罪に陥れました。私たちは、アダムと血と肉でつながっているからです。アダムに起こったことは、私たちにも起こります。神様の御決定により、私たちは皆、ひとりの人間の子孫として生まれ、そのゆえまた、彼の「遺産」も受け継いでいるのです。アダムの行いのゆえにアダムに降りかかった呪いは、私たちにも降りかかっています。
1月18日
しかし、恵みの賜物は罪過とは比較になりません。もしもひとりの人の罪過のために多くの人が死んだのであれば、まして神様の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とはもっと豊かに多くの人々を満たしたはずです。
(ローマの信徒への手紙 5章15節)
アダムは、すべての罪や悲惨や死の源であり、私たちに遺産として、罪に加えてさらに罪を与えています。一方、キリストは、すべての恵みや命や真理の源であり、私たちにあふれるほど豊かに、これらすべてを、恵みに加えてさらに恵みを与えてくださっています。
1月19日
(「ヨハネによる福音書」1章14節)
私たちの主イエス・キリストは、あらゆる恵みと真理と義と栄光と命の源泉です。この泉は、たとえそこからこの世の人が皆天使になれるほど多くの恵みと真理を汲み上げたとしても、一滴たりとも減ってしまうことがないほど、測り知れず、尽きず、底知れません。この泉には、恵みが常に滾々と満ち溢れています。キリストの恵みを味わいたい人は、それをキリスト御自身から探しなさい。この泉を空っぽになるまで汲み尽くすことは、決してできません。この泉は決して枯れることがなく、いつでも溢れるほどに一杯なのです。
1月20日
私たちは皆、この方の充溢の中から、恵みに加えてさらに恵みを受けました。
(「ヨハネによる福音書」1章16節)
私たちは何を受け取るのでしょうか。「恵みに加えてさらに恵みを」いただくのです。ヨハネはふたつの恵みについて語っています。「キリストの恵み」は、すべての恵みの究めがたい源泉です。ヨハネはそれを「この方の充溢」と呼んでいます。「御自身の恵み」のゆえに、キリストは私たちに「私たちの恵み」を賜ります。私たちは、それをキリストからいただいて、神様のお目に適う、すてきな存在になるのです。