2010年11月15日月曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」1月1日~5日

1月1日

信仰による義はこのように言っています、「誰が天国に引き上げられることになるのか、と心のうちで言ってはいけませんそれはキリストを引き下げることになります。あるいはまた「誰が深い所に引き下げられることになるのか、と言ってもいけませんそれはキリストを死者たちから引き上げることになります。では信仰による義はなんと言っていますか。御言葉はあなたの近くにあります、あなたの口にあり、心にありますこれこそ私たちが宣べ伝えている信仰の言葉です。
(「ローマの信徒への手紙」10章6~8節)

神様は御自分を与える約束をしてくださった、福音の中で私たちにすべてを与えてくださいます。神様はこう言われたいのです、「私の心と意志は私の言葉があるところにあります。私の言葉の中であなたは私をまるで対面しているかのようにはっきりと見ます



1月2日

イエス様と共に食事の席にいた一人がイエス様に言いました、「神の国で食事をする人は皆さいわいです」そこでイエス様は言われました、「ある人が盛大な食事会を催しては[1]、多くの人を招きました[2]そして、食事会の時刻に自分の僕を送って招かれていた人たちに言いました「来てください。もう準備ができています」」。
(「ルカによる福音書」141517節)

私たちの食事は聖なる福音、私たちの主キリスト御自身で。私たち福音を通してられた、私たちを罪ののろいから完全に解放されたであり、私たちを死や神様の怒りや永遠の滅びの下から贖い出された(すなわち買い戻してくださった)方であるキリストが、私たちの食べ物で。この福音の宣教によってキリストは招待を受け入れた客人たちを養ってくださっているのです



13

あなたの御言葉が見出されたときにはいつも、私はそれを食べました。そして、あなたの御言葉は私にとって、喜び、私の心の喜びになりました。
(「エレミヤ書」1516節より)

私は他の人がどれほど霊的に強いのか知りません。「自分は聖くなった」と言い張る人たちもいます。でも私はたとえどれほど学識があり霊的であったとしても、聖なる人間にはなれません。もしも御言葉について考えたり研究したりしないなら、今だって私はキリストが私のそばにおられることを体験しないし、少しの熱意も湧かないし御霊の働きも感じませんそれでも、詩篇や他の聖書の箇所に深く考えを巡らすと、たちまちのうちに私の心は温かくなり、新しい思いや勇気を得るのです



14

主はあなたを圧迫し、あなたを飢えさせ、あなたも知らずあなたの父たちも知らなかったマナをあなたに食べさせました。それは「パンによってのみ人は生きるのではなく、主の口から出るすべての御言葉によって人は活きる」ことを主があなたに知らせるためでした
(「申命記」83節)

お金と持ち物のために役立ちます。ただしそれは、体が十分に健康で、それらを利用できる場合だけです。病気になったり死にかけているときには、お金や持ち物その持ち主にとって砂粒のようなもので、何の役にも立ちません。お金や持ち物とはちがい、神様の御言葉は永遠の宝物で。私たちは御言葉を通して罪や死や地獄から解放され、恵みと永遠の命にあずかることになります



15

私たちが肉の中に生きていたとき、律法を通してくるいろいろな罪の欲望が、
(私たち)死へといたるような実を結ばせようとして、私たちの体の諸部分に働き続けていました[3]。しかし私たちは私たちを縛っていたものに対して死んだので、律法から解放されまし[4]。その結果として[5]、私たちは古い文字によってではなく、新しい御霊によって仕えているのです
(「ローマの信徒への手紙」756節)

以前には、私は本心を神様から隠して、表面的には神様を愛しているふりを無理やり演じていました。けれども当時の私にとって聖書の御言葉の中で「悔い改め」という言葉ほど恐ろしい言葉はありませんでした。しかし今の私にとっては、これほど愛らしくまた好ましい言葉は他にないのです。同じように神様の律法も聖書を通してだけではなく、また私たちの救い主の尊い傷を通して私たちがそれを知るようになるときに、愛らしいものになるのです



[1] 未完了形。
[2] アオリスト。
[3] 未完了形。
[4] アオリスト。
[5]  ωστε + ACI (Accusativus cum infinitivo対格+不定詞) この構文は場所や時に縛られない結果を表す。