1月1日
信仰による義はこのように言っています、「誰が天国に引き上げられることになるのか、と心のうちで言ってはいけません」。それはキリストを引き下げることになります。あるいはまた「誰が深い所に引き下げられることになるのか、と言ってもいけません」。それはキリストを死者たちから引き上げることになります。では、信仰による義はなんと言っていますか。「御言葉はあなたの近くにあります、あなたの口にあり、心にあります」。これこそが、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉です。
(「ローマの信徒への手紙」10章6~8節)
神様は、御自分を与える約束をしてくださった、愛の福音の中で、私たちにすべてを与えてくださいます。神様はこう言われたいのです、「私の心と意志は、私の言葉があるところにあります。私の言葉の中で、あなたは私をまるで対面しているかのようにはっきりと見ます」。
1月2日
イエス様と共に食事の席にいた一人がイエス様に言いました、「神の国で食事をする人は皆、さいわいです」。そこでイエス様は言われました、「ある人が盛大な食事会を催しては[1]、多くの人を招きました[2]。そして、食事会の時刻に自分の僕を送って、招かれていた人たちに言いました、「来てください。もう準備ができています」」。
(「ルカによる福音書」14章15~17節)
私たちの食事は、聖なる福音、私たちの主キリスト御自身です。私たちに福音を通して贈られた、私たちを罪ののろいから完全に解放された方であり、私たちを死や神様の怒りや永遠の滅びの下から贖い出された(すなわち「買い戻してくださった」)方であるキリストが、私たちの食べ物です。この福音の宣教によってキリストは、招待を受け入れた客人たちを養ってくださっているのです。
1月3日
あなたの御言葉が見出されたときにはいつも、私はそれを食べました。そして、あなたの御言葉は私にとって、喜び、私の心の喜びになりました。
(「エレミヤ書」15章16節より)
私は他の人がどれほど霊的に強いのか知りません。「自分は聖くなった」と言い張る人たちもいます。でも私は、たとえどれほど学識があり霊的であったとしても、聖なる人間にはなれません。もしも御言葉について考えたり研究したりしないなら、今だって私は、キリストが私のそばにおられることを体験しないし、少しの熱意も湧かないし、御霊の働きも感じません。それでも、詩篇や他の聖書の箇所に深く考えを巡らすと、たちまちのうちに私の心は温かくなり、新しい思いや勇気を得るのです。
1月4日
主は、あなたを圧迫し、あなたを飢えさせ、あなたも知らずあなたの父たちも知らなかったマナをあなたに食べさせました。それは、「パンによってのみ人は生きるのではなく、主の口から出るすべての御言葉によって人は活きる」ことを、主があなたに知らせるためでした。
(「申命記」8章3節)
お金と持ち物は、体のために役立ちます。ただしそれは、体が十分に健康で、それらを利用できる場合だけです。病気になったり死にかけているときには、お金や持ち物は、その持ち主にとって砂粒のようなもので、何の役にも立ちません。お金や持ち物とはちがい、神様の御言葉は永遠の宝物です。私たちは、御言葉を通して、罪や死や地獄から解放されて、恵みと永遠の命にあずかることになります。
1月5日
私たちが肉の中に生きていたとき、律法を通してくるいろいろな罪の欲望が、
(私たちに)死へといたるような実を結ばせようとして、私たちの体の諸部分に働き続けていました[3]。しかし、今や私たちは、私たちを縛っていたものに対して死んだので、律法から解放されました[4]。その結果として[5]、私たちは、古い文字によってではなく、新しい御霊によって仕えているのです。
(「ローマの信徒への手紙」7章5~6節)
以前には、私は、本心を神様から隠して、表面的には神様を愛しているふりを無理やり演じていました。けれども、当時の私にとって、聖書の御言葉の中で「悔い改め」という言葉ほど恐ろしい言葉はありませんでした。しかし、今の私にとっては、これほど愛らしくまた好ましい言葉は他にないのです。同じように、神様の律法も、聖書を通してだけではなく、また私たちの救い主の尊い傷を通して、私たちがそれを知るようになるときに、愛らしいものになるのです。