2011年6月3日金曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」12月26日~31日



1226

「主イエス様、私の霊をお受け取りください」と祈りつつ話している[1]ステパノに、人々は石を投げ続けていまし[2]
使徒の働き759節)

「私は祈ります、主イエス様、私の霊をお受け取りください!」
ステパノは、自分の霊がキリストにあって救われるなら肉体もまたとともに救われるのだから、自分の肉体のことを心配する必要はない、と確信していましここには死んだ後も命が続くへのステパノの信仰がすばらしい形で表現されています。ステパノ殉教したのステパノ自身のためではなく、私たち慰めためのものです。それはステパノの残した軌跡の上を私たちが歩むときにイエス様が私たちの場合にも同じように働いてくださることを私たちが疑わないためなのです




1227

彼らは収穫のときに喜ぶように、獲物を分け合うときに楽しむように、あなたの御前で喜びました。(・・・)なぜなら、独り子が私たちのために生まれ、男の子が私たちに与えられたからで
イザヤ書925節より)

この子供についてのみ、聖書は「彼は私たちのために生まれた」と言っています。この子は私たちのために生まれ、私たちのものなので。彼は自分自身のためには生まれ必要がなかったことでしょう。彼が人として生まれてからもってるものや行うことはすべて、私たちに関わりがあるのです。そして、あらゆる出来事は、私たちの益や幸福や救いのために、起こったのです。



1228

なぜなら、独り子が私たちのために生まれ、男の子が私たちに与えられたからで。支配権はその双肩にかかっており、その御名は「奇跡の助言者」、「勇士なる神」、「永遠の父」、「平和の君」と呼ばれます
イザヤ書95節)

この方は私たち全員の罪の重みいっぺんに十字架によって担いでくださいました。この方は、私たち皆が昔も今もこれからも行うすべての罪を私たちに代わって御自分に引き受け、それを赦してくださった、いう十字架のメッセージを通して、今もなお福音によって私たちの罪を担いでくださっています。これはキリストにふさわしい、慰めのことばで!この方は御国をその肩で担っておられるので



1229

彼の支配力は大きく、ダヴィデの王座とその王国には平和が限りなくつづきます。彼は今から後も永遠に、公平と正義とをもって王国を立て保たれます。万軍の主の熱情がそうなさるのです
イザヤ書96節)

ちょうど父がわが子にまた羊飼いがの羊たちにするように、この方は御国をそのすべての欠点をも含めて担いでおられます。この方は御国の民をその罪のゆえに投げ捨てず、逆に彼らを助け癒してくださいますなぜなら、この方の御国はすべての貧しい罪人にとって助けと恵みと慰めの王国だからです。



1230

「さあ私たちはベツレヘムへ行って、主が私たちに告げ知らせてくださった出来事を見て来ようではありません
ルカによる福音書215節より)

人間的な信仰と神的な信仰の真の違いは次の点にあります。人間的な信仰は特定の人間に頼り、メッセンジャーほかならぬその人であるという理由でその言葉を信用して敬いますそれに対し、神的な信仰は神様御自身がその中におられる御言葉にしっかりと留まり、それを伝える人が誰であるかには関わりなくそれが真であることを受け入れて敬います(・・・)こうした信仰は生きていても死んでいても、地獄でも天国でもくずれません。誰もそれを滅ぼすことはできないのです。そのような信仰御言葉に基づいているからで



1231

兵卒の中の一人でイエス様のわきを突き刺しました。するとすぐに血と水とが流れ出ました。
ヨハネによる福音書1934節)

主イエス・キリストのわきから流れている血こそは、私たちをあがないだすために必要な、私たちの罪を完全に帳消しにする「値段」ですなく受けた苦しみと死によって、また十字架で流された聖なる尊い血によって、愛する主イエス・キリストは私たちのすべての罪の負債を支払ってくださり、自分自身の罪のゆえに永遠の死と滅びに支配されていた私たちをあがないだしてくださいました。このキリストの血は神様のみもとで私たちを守るために休みなくこう叫び続けています、「憐れんでください!憐れんでください!赦してください!赦してください!お父様!お父様!」。のようにしてキリストの血は私たちのため神様のあわれみと罪の赦し、また義と救いをそなえてくださったのです。父なる神様は今、神様と私たちの仲介をしてくださるこの愛する御子の叫びと私たちのためのとりなしの祈りを聴いてくださり、弱々しい罪人である私たちをあわれんでくださいます。私たちはすみずみまで罪にまみれているにもかかわらず、神様は私たちの中にひとつの罪も見出しません。神様は愛する御子イエス・キリストの比類なき尊い血だけを見ておられるからです。そしてこの血によって私たちは清くすすがれているので。この血こそが黄金の恵みの衣装す。この血によって私たちはおおわれています。この血包まれて、私たちは神様の御前に進み出ます。それゆえ神様は私たちを、あたかも義と聖と無垢に満ちた愛する御子であるかのようにみなしてくださるのです


おわり


[1] 両方の動詞共、現在完了形。継続的行為を表す。
[2] 未完了過去形。過去における継続的行為をさす。