「神様の御前で」
ヒソプをもって、私を(罪から)清めてください。
そうすれば、私は清くなるでしょう。
私を洗ってください。
そうすれば、私は雪よりも白くなるでしょう。
(「詩篇」51篇9節)
罪にまみれた思い出は心の平安を奪ってしまいます。
自分の罪を気に留めず、忘れて、心から追い払うように努めることは
たしかにできます。
ダヴィデもそうしてみましたが、
「私が(自分の罪について)沈黙した時は、
一日中うめくうちに私の骨は磨耗してしまいました。
あなたの御手が昼も夜も私の上に重くのしかかったからです。
私は夏の日照りの中で枯れ果てました」
(「詩篇」32篇3~4節)。
道はひとつしかありません。
罪はすべてのことを見通される神様の御前に進み出なければなりません。
ダヴィデはそのようにしました。
「自分の咎を主に告白しよう、と私は言いました。
その時、あなたは私の犯した罪を赦してくださいました」
(「詩篇」32篇5節より)。
ダヴィデが「雪よりも白く」という言葉を用いるとき、
彼が意味しているのは聖なる天使ではなく、
姦通と殺人の罪にまみれた彼自身についてなのです。
雪はひときわ白いものです。
しかし憐れみ深い神様の御前にはそれよりもさらに白いものがあります。
それはイエス様の尊い血によって清められた人です。
こういうわけですから、
どうして赦しを受けていない罪が
私たちの心の中を痛めつけるままにさせておいてよいものでしょうか。
どうして自分のすべての罪を神様に告白するために急がずにいられましょうか。
そうするならば、
「安心しなさい。あなたの罪は赦されています」
という罪の赦しの宣言を救い主の口から聴くことができ、
信仰を通してその罪の赦しを確実にいただくことができるのですから。
(祈り)主よ、私の口があなたを感謝するように、
どうか私の唇を開いてください。アーメン。
(関連聖句)「イザヤ書」1章1~18節