「望郷の念」
私はこれら二つのものの間に板ばさみになっています。
私が切望しているのはこの世を去ってキリストと共にいることであり、
そのほうがはるかによいことです。
(「フィリピの信徒への手紙」1章23節)
もしも山上の説教[1]の「幸いなるかな」という一連の教えに
もうひとつの教えが付け加えられていたとしたら、
それはきっと
「天国の家を思慕する者は幸いなるかな。
彼らは故郷に運ばれていくだろうから」
という言葉だったのではないでしょうか。
多くの言葉を費やして聖書は
「あなたがたは上にあるものを思うべきである」[2]と私たちに勧めています。
多くのキリスト信仰者が上述の使徒パウロの手紙の言葉を引用して
「天国へ行きたい」という自らの希望を言い表すのは
別に不思議なことではありません。
しかし、パウロは救い主がその僕である彼を
天の父なる神様の御許へまだ連れ去るおつもりがないことを知っていました。
救い主はパウロに御国の仕事を用意なさっていたからです。
この仕事が終わって
天の父なる神様の御許に行けるその時ができるだけ早く来るように、
パウロは自由な心で勤勉に御国のために喜んで仕えました。
私たちには天の御国への望郷の念があるでしょうか。
そこへ入れる日を待ち望むことで、
私たちは喜んで救い主の御国で働くことができるのです。
心を天に向けましょう。
しかし手はこの地上に向けて、
主にある兄弟姉妹に熱心に仕えるために用いましょう。
私たちは天の家に自分が入れることを
信仰によって確かであると思ってよいのです。
なぜなら
「私は行って、あなたがたのために場所の用意をしたならば、
また来て、あなたがたを私のところに迎えます。
それは、私がいる場所にあなたがたもいるようになるためです」
(「ヨハネによる福音書」14章3節)
とイエス様は約束なさっているからです。
(祈り)
私は主にあって生きるのなら、死ぬ時に勝利を得ます。
私がこの世を去る瞬間にも、キリストは私の命です。
私が死ぬ時に、主は私の魂の世話をしてくださいます。
(関連聖句)「テモテへの第二の手紙」4章6~8節