2010年12月9日木曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」3月1日~5日


31

イエス様は彼[1]に言われまし「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神様を愛しなさい[2]」これが最も大切な第一の戒めで。第二もこれと同様です、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい[3]
マタイによる福音書223738節)

この最大かつ最重要な戒めの要求を満たしている人はこの地上にひとりもません。逆で。この戒めは、最大の聖者でさえ律法の最小の一筆さえ満たせないほど、私たちがひどい罪人であることを示しているので



32

神様はこれらすべての御言葉を語って言われまし「私は、主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者で
出エジプト記2012節)

「私は主、あなたの神でこの御言葉によって神様は次のことを意味しておられます、「横柄であってはなりません。もしあなたが横柄ならば、私はもうあなたの神ではありません。疑ってはなりません。もしあなたが疑うなら、私はもうあなたの神ではありません。私のみがあなたの神であるようにし、他の神々を探したりしないように、注意しなさい。もしもあなたに何かよいものが欠けているなら、じっと待って私からそれを探しなさい。もしも事故に遭ったり、危険に晒されたりするならば私のところに避難し、私にしがみ付いていなさい。私はあなたに与えたいと望んでおり、あらゆる危険の只中であなたを助けたいと思っているのです。あなたの心が私以外のものに執着したり、私以外のところから休息の場を探したりしないように、注意しなさい



33

そして、言は肉となり、私たちのうちに宿りました。そして私たちはその栄光を見ました。それは、父からひとりお生まれになった方の栄光、恵みと真理とに満ちておられる方の栄光で
ヨハネによる福音書114節)

すべてを生み出した源なる御言葉は命です。そして、この命が人々の光でこの光がなければ人間には暗闇しかありません人間自分の行いによって神様の恵みを獲得するなどと言うのはもちろん論外であたかもそれが可能であるかのように、あのおかしくなっている大学が、その偶像であるローマ法王と一緒になって教え、全世界を惑わしています。人々の光となるために、すなわち人々に知られるために、キリストはこの世に来られたのです。そして、人となられ、御自身を人々の間で肉体的にも性格的にもはっきりと示してくださいました。この方はランプに点された光。なくなってしまった銀貨が、自分の行いや光に頼って、このランプを探して奔走したわけではありません。そうではなく、ランプが銀貨を探し、の光によってそれを見つけたので



34

人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスの信仰を通してであることを知って、私たちもキリスト・イエスを信じたので。それは、律法の行いからではなくキリストの信仰から、私たちが義とされるためで。なぜなら、律法の行いからは、何ものも義とされることがないからで
ガラテアの信徒への手紙216節)

もしも私たちが正しく明瞭に義認の教理[4]を理解しているならば、私たちの天の太陽があることになります。しかし、もしも私たちがこの教理を失うならば私たちに残されるのは地獄の暗闇だけで。良心の平和を保証するこの教理が揺るがず傷つかずに存立し続ける限り、クリスチャンはこの世のあらゆるえや支配者法律を裁きさえする立場にあるのです



35

活きているのはもはや私ではありません。キリストが私のうちに活きておられるので。しかし、私が今肉にあって活きているのは、私を愛し、私のために自身をささげられた神の御子への信仰によって、活きているので
ガラテアの信徒への手紙220節)

私の心を支配しているのは(当然そうあるべきでが)私の主イエス・キリストへの信仰でキリストこそ、夜であれ昼であれ、あらゆる霊的かつ神的な思考の中心であり始点であり終点なのです


[1] ファリサイ人の律法学者」をさす。
[2] 未来形。
[3] 未来形。
[4] どうすれば人間は神様に「義しい」者として「認めて」いただく、すなわち、(天国に)受け入れていただく、ことになるかについての教理。