3月1日
イエス様は彼[1]に言われました、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神様を愛しなさい[2]」これが最も大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい[3]」。
(「マタイによる福音書」22章37~38節)
この最大かつ最重要な戒めの要求を満たしている人はこの地上にひとりもいません。逆です。この戒めは、最大の聖者でさえ律法の最小の一筆さえ満たせないほど、私たちがひどい罪人であることを示しているのです。
3月2日
神様はこれらすべての御言葉を語って言われました、「私は、主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者です」。
(「出エジプト記」20章1~2節)
「私は主、あなたの神です」。この御言葉によって神様は次のことを意味しておられます、「横柄であってはなりません。もしあなたが横柄ならば、私はもうあなたの神ではありません。疑ってはなりません。もしあなたが疑うなら、私はもうあなたの神ではありません。私のみがあなたの神であるようにし、他の神々を探したりしないように、注意しなさい。もしもあなたに何かよいものが欠けているなら、じっと待って私からそれを探しなさい。もしも事故に遭ったり、危険に晒されたりするならば、私のところに避難し、私にしがみ付いていなさい。私はあなたに与えたいと望んでおり、あらゆる危険の只中であなたを助けたいと思っているのです。あなたの心が私以外のものに執着したり、私以外のところから休息の場を探したりしないように、注意しなさい」。
3月3日
そして、言は肉となり、私たちのうちに宿りました。そして私たちはその栄光を見ました。それは、御父からひとりお生まれになった方の栄光、恵みと真理とに満ちておられる方の栄光です。
(「ヨハネによる福音書」1章14節)
すべてを生み出した源なる御言葉は命です。そして、この命が人々の光です。この光がなければ人間には暗闇しかありません。「人間は自分の行いによって神様の恵みを獲得する」などと言うのはもちろん論外です。あたかもそれが可能であるかのように、あのおかしくなっている大学が、その偶像であるローマ法王と一緒になって教え、全世界を惑わしています。人々の光となるために、すなわち人々に知られるために、キリストはこの世に来られたのです。そして、人となられ、御自身を人々の間で肉体的にも性格的にもはっきりと示してくださいました。この方は「ランプに点された光」です。なくなってしまった銀貨が、自分の行いや光に頼って、このランプを探して奔走したわけではありません。そうではなく、ランプが銀貨を探し、その光によってそれを見つけたのです。
3月4日
人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスの信仰を通してであることを知って、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。それは、律法の行いからではなくキリストの信仰から、私たちが義とされるためです。なぜなら、律法の行いからは、何ものも義とされることがないからです。
(「ガラテアの信徒への手紙」2章16節)
もしも私たちが正しく明瞭に義認の教理[4]を理解しているならば、私たちには真の天の太陽があることになります。しかし、もしも私たちがこの教理を失うならば、私たちに残されるのは地獄の暗闇だけです。良心の平和を保証するこの教理が揺るがず傷つかずに存立し続ける限り、クリスチャンはこの世のあらゆる教えや支配者や法律を裁きさえする立場にあるのです。
3月5日
活きているのはもはや私ではありません。キリストが私のうちに活きておられるのです。しかし、私が今肉にあって活きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子への信仰によって、活きているのです。
(「ガラテアの信徒への手紙」2章20節)
私の心を支配しているのは(当然そうあるべきですが)私の主イエス・キリストへの信仰です。キリストこそ、夜であれ昼であれ、あらゆる霊的かつ神的な思考の中心であり、始点であり、終点なのです。