3月11日
(「ガラテアの信徒への手紙」3章25節)
「詩篇」32篇や「ローマの信徒への手紙」4章で言われていることは、まさしく的を得ています。すなわち、神様が罪にお定めにならない人はさいわいなのです。聖パウロは、「このように神様が罪にお定めにならないのは、キリストを信じている者たちに対してのみであり、自由意志や人間の性格やその行いのゆえではないのです」、と説明します。例としてパウロはアブラハムをあげています。アブラハムが自分の種(つまり子孫)に関する神様の約束を信じたとき、この信仰が義と認められたのです。
3月12日
あなたたちを光のうちにある聖徒たちの遺産にあずかるのにふさわしい者とならせてくださった父なる神様に、私たちは感謝しています[2]。神様は私たちを闇の支配から救い出して、御自身の愛される御子の御国に移してくださいました[3]。私たちはこの御子のうちに贖い、すなわち、罪の赦しをいただいているのです[4]。
(コロサイの信徒への手紙 1章12~14節)
福音は私たちに、死から命への救いと、罪から義への救いを、また、地獄やあらゆる悪からの贖いを宣べ伝えています。福音は私たちを暗闇の国から神の国へと移してくれます。これらすべてはあまりに偉大なことなので、使徒は自分がそれを言葉で表現できるとは思っていません。これ以上的確にはその偉大さを表現できないほど素晴らしく語っているにもかかわらず、彼はそう言っているのです。
3月13日
(「ヘブライの信徒への手紙」3章14節)
私たちの心はいつでも、信仰生活の初日を迎えている人たちのようでなければなりません。私たちの考えはいつでも、今まで一度も福音を聞いたことがないかのようでなければなりません。私たちは毎日、最初から始めなければなりません。信仰というものを特徴付けているのは、絶え間ない成長です。
3月14日
兄弟たちよ、私たちはあなたたちに勧めます。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して忍耐強くありなさい。
(「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章14節)
私はいろいろなことを学んだ博士ですが、ある(信仰の)兄弟の言葉からしばしば助言や忠告を受けました。この兄弟は何に関しても自分を私と同等にはみなしていませんでした。人が危機に瀕したときに、(信仰の)兄弟の誰かが聖書から読んで聞かせてくれる御言葉は、力強くまた尊いものです。なぜなら、聖霊様を聖書から分け隔てることはできないからです。
3月15日
(「ヨハネによる福音書」1章29節)
この世の初めから終わりまでのすべての罪は、神の小羊の上に投げかけられました。あなたもこの世に生きており、この世の一部なので、このことはあなたにも関係があります。「私たちはキリストにあって、神の小羊にあって、罪の赦し、神様の御好意と恵み、それから永遠の命をいただいている」と、もしも私たちが信じているならば、罪は私たちに危害を加えることができません。神様は私たちを愛し、憐れんでくださいます。そして死や地獄は私たちを縛り付けることができません。