2月26日
(「民数記」21章8節)
良心の戦いや死に直面して慰めが必要なとき、私は信仰によってキリストを自分のものとし、こう言わなければなりません、「私は、私のために十字架の死を耐えてくださった神の子イエス・キリストを信じます。キリストの傷や死の中に、私は自分の罪を見ます。しかし、キリストの復活の中に、私は自分の義、永遠の命、罪や死や悪魔の支配からの解放を見ます」。
2月27日
こういうわけで、安息日の休みが神の民のためにちゃんと残されているのです。なぜなら、神様の安息に入ったものは、神様がみわざをやめて休まれたように、自分もその行いを休んだからです。
(「ヘブライの信徒への手紙」4章9~10節)
私たち、神の子の尊い血を通して贖われたクリスチャンは、自分を信仰において鍛錬しなければなりません。それは、私たちが死を軽蔑して、それを心地よい深い夢と見なし、棺を主イエス・キリストの懐すなわち天国と見なし、墓を静かな安息所(神様の目には実際にそうなのです)と見なせるようになるためです。
2月28日
そしてイエス様は彼ら[2]に言われました、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい[3]。信じて洗礼を受ける者[4]は救われるでしょう[5]。しかし信じない者は罪に定められるでしょう」。
(「マルコによる福音書」16章15~16節)
あなたは、ユダヤ教や全世界の反抗心や傲慢さが裁かれたのを聞きました。キリストは、この御言葉ひとつによって、天国を開き、御自分を信じる者皆に対しては、地獄を閉ざし、モーセの律法の専横をなくしてくださるからです。そしてまた、信じない者皆に対しては、地獄の淵を開き、死を全能者にし、モーセを耐え難い暴君になさるからです。