2014年1月22日水曜日

「ルターの祈りの本」 主の祈り(その12)


悪より救い出したまえ。(その5)
 
 
祈りと他の用事をごっちゃにしている
一例として挙げた牧師のように、
皆が皆、口先だけで祈っているわけではないにせよ、
心の中で考えが動いてごちゃまぜになり、
おわりまで祈ったときに、
いったい何をやったのか、
あるいは、
どのように祈りおえたのか、
わからないままでいるのは、
よく見受けられます。
「祝福あれ」、
という言葉ではじめたかと思うと、
もうだらっとしてしまいます。

私が思うに、
真摯さに欠ける冷えた心で祈る間に
でたらめにうごきまわる思いほど、
愚かしい茶番劇はありません。

もしも祈った内容を忘れてしまうならば、
正しいやり方で祈られてはいなかった、
ということを、今では私も理解しています。
そして、そのことを神様に感謝しています。
なぜなら、正しく祈る人は、
祈りのはじまりからおわりまで、
すべての言葉と考えを非常に正確に覚えているものだからです。


それとまったく同じように、
よい働き者の散髪屋は、
自分の考えと思いと目を、
かみそりと髭、はさみと髪に、
非常な正確さをもって集中させなければなりません。
そして、どの箇所を剃ったり刈ったりしているのか、忘れてはいけません。
ところが、もしも散髪屋が仕事をしながら
たくさんおしゃべりしたり、
ほかのことを考えたり、
よそ見をしたりするならば、
顎や鼻や喉さえも切ってしまうかもしれません。

これとまったく同じように、
何かをきちんと仕上げるためには、
人間のあらゆる思考力と全身を総動員する必要があります。
よく言われるように、
まとまりもなくただぼんやりと考えている人は、
実は何も考えてはおらず、
何もきちんと行うことができないものです。
ほかの何にもまして、祈るときこそ、
もしも本気で祈りたいのならば、
心を完全にひとつのことに集中させるべきなのです。