8月11日
私はあなたに教え、私はあなたにあなたの歩む道をはっきり示します。私は助言を与え、私の目はあなたに注がれています。
(「詩篇」32篇8節)
主はこう言われています。あなたは私に教えようとしても、自分自身に教え込もうとしてもいけません。あなたは私に自分を委ねなさい。私はあなたの師匠であり、私の御心に適うようにあなたが歩めるような道であなたを導いていきます。自分の考えどおりに進まないとき、すべてがだめになったとあなたには見えることでしょう。そういうときには、あなたの考えはあなた自身を傷つけ私を妨げます。あなたの思い通りにうまくいくことなどは何もなく、あなたの理解を超えてすべてことは運ぶのです。自分の理解力のなかでへりくだりなさい。そうすれば私の理解力をあなたは得ます。
8月12日
人のすべての道はその人の目には単純明瞭に見えます。しかし、主は人の魂をはかられます。あなたのなすべきことを主に委ねなさい。そうすれば、あなたの計画は成功するでしょう。
(「箴言」16章2~3節)
あなたは主の善性を味わってよいのです。主はあなたにあなたの心が望んでいることを与えてくださるでしょう。あなたの道を主に委ねなさい。主に信頼しなさい。そうすれば主はおこなってくださるでしょう。
(「詩篇」37篇4~5節)
私は多くの計画を自分の手の中に収めておきたいと思ったものですが、そういうときにはいつも計画は失敗したものです。しかし、神様の御手に委ねたことがらは決して失敗に終わったことがありませんでした!
8月13日
イエス様は答えて彼(洗礼者ヨハネ)に言われました、「今はそうさせなさい。すべての義を満たすのはこのように私たちにふさわしいからです」。そのときヨハネは(イエス様が彼から洗礼を受けるのを)認めてその通りにしました。
(「マタイによる福音書」3章15節)
「あらゆる義を満たすこと」は、正しくあろうとはしないことであり、自分のなかに何かよいものが見出せるなどと信じずに、自分を罪人として告白することです。これは二重の義です。まず、魂はキリストへの信仰によって義です。次に、その人は自分を義とは見なさず、汚らしいだけの罪人と見なしています。もともと私たちは皆そのような者なのです。肉が塵になるまで罪は肉にとどまっているからです。
8月14日
誰も自分自身を欺かないようにしなさい。もしもあなたたちの中で誰かが自分を知者と思い込んでいるならば、その人は知恵ある者となるために愚かになりなさい。この世の知恵は神様の御前では愚かだからです。(聖書に)「神様は知者たちを彼らの狡猾さによって捕縛します」と書いてあり、更にまた「主は知者たちの論議が無益なものであることを御存知です」と書いてあるとおりです。
(「コリントの信徒への第一の手紙」3章18~20節)
キリスト教の信仰や教会にとって「自分の知恵」ほど耐えがたくまた有害であるものはありません。それは何かをやり始めると必ず正しい道からはずれて、自己満足をもたらすような新奇なことを構築しようとするものだからです。
8月15日
愛は決して消え去りません。預言は失われるでしょう。異言は止むでしょう。知識は廃れるでしょう。一部分だけを私たちは知っており、また一部分だけを私たちは預言しています。しかし完全なものが来たときに、部分的なものは廃れます。
(「コリントの信徒への第一の手紙」13章8~10節)
私たちは部分的にまた不完全に理解しています。見ることによってではなく、信仰において理解するからです。私たちは不安定にまた不完全に預言しています。御言葉と説教を通して預言するからです。すべてを理解しようと無理するよりも、自分の無知を告白するほうが安全です。