8月16日
あなたは立ち上がり、シオンを憐れまれるでしょう。
(「詩篇」102篇4節前半)
私はあなたのみもとに参ることができません。それゆえ、私の神様、立ち上がり、私のところに来て、私をみもとにお連れください。「立ち上がる」とは「神様が人となられた」という、最も麗しく恵み深い事実を意味しています。このようにして神様は私たちをみもとにもちあげるために私たちのところに来られました。そして、御自分の民シオンを憐れんでくださいました。
8月17日
主を畏れることは知恵の始まりです。このように行う者にはすぐれた洞察力があります。主の賛美は永遠に不変です。
(「詩篇」111篇10節)
学問や芸術の領域では、多くを見聞した者が専門家になれるわけですが、神学や霊的な知恵の領域では、見聞や探究は無益であり、専門家に要求される大切な唯一の基準は「神様の御言葉を聴いて信じる」ことです。何か他の基準をもつ者は道を踏み外します。そのような人は、たとえこの世のあらゆる知恵に精通していたとしても、何もできず正しく説教することもできません。
8月18日
あなたたちが罪の奴隷であったとき、あたたたちは義に対して自由でした。(中略)しかし、今やあなたたちは罪から自由になって、神様に対して隷属し、最終的には永遠の命へと至る聖化のための、自分たちの実を結んでいるのです。罪の報酬は死ですが、神様の恵みは私たちの主イエス・キリストにおける永遠の命です。
(「ローマの信徒への手紙」6章20節、22~23節)
よい行いによって神様に受け入れていただける人は誰もいません。よい行いは神様のご好意を得て初めて可能になるのです。「私たちは神様に受け入れていただける」という信仰がよい行いを生み出すのであって、行いが信仰をもたらすのではありません。
8月19日
彼らに対して、一瞬たりとも私たちは一歩も譲りませんでした。それは、福音の真理があなたたちのところに留まりつづけるためです。
(「ガラテアの信徒への手紙」2章5節)
ここで「福音の真理」とは福音の内容や意図ではなく、福音の正しい使用法であることに注目するべきです。福音の真理とは、「すべては清い者にとって清く、戒めは死んでいて誰をも強制できないので、救われ義とされるためには何の行いも必要ないことを知ること」にほかならないからです。私たちは「戒め」(十戒など)を、あたかもそれが存在しないがごとく、しかし愛に基づいて守ってゆこうではありませんか。
8月20日
彼(御座に座っておられる方)は私にこう言われました、「それらは実現しました。私はアルファでありオメガです。はじめでありおわりです。私は渇いている者に命の水の泉から(水を)ただで与えるでしょう」。
(「ヨハネの黙示録」21章6節)
この井戸は涸れることがありません。それは恵みと真理に満ちており、どんなにたくさん汲んだとしても少しも減りません。私たちが皆一斉に汲んだとしても、空っぽになりません。それはいつでもあらゆる恵みと真理の永遠無限の泉、底のない井戸です。そこから汲めば汲むほど、それだけいっそう豊かに永遠の命へと途切れることなく流れ行く水が懇々と湧き出てくるのです。