7月21日
このように、あなたたちは主イエス・キリストを受け入れたのだから、主にあって歩みなさい。主に根ざし主にあって建てられ、あなたたちが教えを受けたように信仰によって強めていただきなさい。感謝に溢れなさい[1]。キリストにではなく人間の言い伝えやこの世の諸霊に基づいている哲学や空虚な騙しごとによって、誰もあなたたちを虜にしないように、注意しなさい。
(「コロサイの信徒への手紙」2章6~8節)
私はたしかに聖書の博士ですが、子供の信仰、主の祈り、洗礼、聖餐を深く研究すればするほど、よりよくそれらの素晴らしさが味わえるようになる、と告白したいと思います。
7月22日
そのときイエス様は答えて言われました、「子供たちのパンを取って子犬たちに投げ与えるのはよくないことです」。女は言いました、「はいそうです、主よ、それで、子犬たちはその主人の食卓から落ちてくるパンくずをいただくのです」。
(「マタイによる福音書」15章26~27節)
御言葉によって「人は皆罪人である」と告げてくださった神様が正しいのならば、神様がすべての罪人に与えてくださる権利、すなわち、罪の赦しをいただけるという権利をあなたも用いてよいのです。そのときにあなたは、子犬とは違って、食卓から落ちてくるパンくずだけを食べるのではありません。希望通りにあなたは神様の子供なのであり、神様はあなたのものなのです。
7月23日
蛇がその狡さによってエヴァを騙したように、あなたたちの思いがキリストに対する単純さと清純さから離れて、汚されてしまうのではないか、と私は懼れています。
(「コリントの信徒への第二の手紙」11章3節)
それゆえ、神様の御言葉はいつもあなたの心と舌と耳にあるべきなのです。心がたるんでいて御言葉を聴かない場合には、蛇が来て気がつかないうちに私たちを傷つけてしまうからです。それに対して、御言葉は、それが真面目に聴かれ研究され心にしまわれた場合には、実を結ばないままにはならず、心と考えをきれいにしてくれる新鮮な理解や意志や熱心さを常にもたらします。
7月24日
私の子供たちよ、私があなたたちにこれを書くのは、あなたたちが罪に陥らないためです。そして、もしも誰かが罪に陥った場合でも、私たちにはお父様の御許に守り主、義なるイエス・キリストがおられます。この方は私たちの罪のための贖いのささげものです。それは、私たちの罪のためばかりではなく、この世すべての罪のため(のささげもの)でもあります。
(「ヨハネの第一の手紙」2章1~2節)
神様があたかもあなたを見捨てようとして怒っているように見えるときには、こう言いなさい、「憐れみ深い神様、まず『身代金』である、あなたの愛する御子を見捨ててください!あなたは御子を見捨てたりはなさらないのでしょう!」。
7月25日
それともあなたたちは、聖書が意味もなく「神様は私たちの中に住まわせた御霊をねたむほどに慕っておられる」と言っていると思うのですか。神様はそれよりも大いなるもの、すなわち「恵み」を与えてくださるのです。それゆえ、聖書は「神様は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを与えてくださる」と言っています。そういうわけですから、神様に従順でありなさい[2]。悪魔に立ち向かいなさい[3]。そうすれば悪魔はあなたたちから逃げていくでしょう。神様に近づきなさい[4]。そうすれば神様もあなたたちに近づいてくださるでしょう。
(「ヤコブの手紙」4章5~8節前半)
人間の理性にきれいに調和し喜びを与えるようなやり方を利用して、常に悪魔は忍び寄ってきます。それで、それを信じる者が沢山いるのです。悪魔と戦うためには、御言葉にしっかりと結びついた高度に霊的な理解力が必要です。さもなければ、悪魔の手口を理解することも、打ち破ることもできません。