「赦しなさい」
主よ、
兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度赦さねばなりませんか。
七度までですか。
(「マタイによる福音書」18章21節より)
罪深い者として私たちは
日々イエス様の救いの御業に守りを求めて逃げ込みます。
そして、憐れみ深い神様は
毎日イエス様のゆえに私たちの罪を赦してくださいます。
隣り人が私たちに対して罪を犯す時、
私たちは心からその人を赦しているでしょうか。
「赦す」と口ではよく言うものの、
実際には赦していないことがあります。
私たちは隣り人の罪を覚えていて、
さらにはそれについて他の人にも話しさえします。
例えば、再び喧嘩になると今までの喧嘩の内容も全部蒸し返されます。
人間とはそういうものです。
私たちは他の人の罪をしつこく覚えているくせに、
自分の罪はすっかり忘れてしまうのです。
ペテロは「自分は十分憐れみ深い」と考えていたことでしょう。
七回までも相手の罪を赦すことにしたからです。
当時の理解によれば、三回も罪を赦せば十分であるとされていました。
イエス様のお答えにある「77度」(あるいは7の70倍)は
「絶えざる罪の赦し」を意味しています。
この罪の赦しには制限も条件もありません。
まさしくこのように神様は罪を赦してくださったし、赦してくださるのです。
このことは私たちを慰めると同時に恥じ入らせもします。
私たちも同じように行うべきだからです。
また、私たちの隣り人も私たちの犯した罪を赦さなければならないのであり、
その量たるや、
私たちが赦すべき隣り人の犯した罪の量と同じくらいか、
あるいはおそらくそれ以上にのぼることでしょう。
(祈り)神様、
恵みの王座の御前で私たちがあなたに近づくことが許されていることを
あなたに感謝します。
また、あなたは罪の赦しを豊かに与えてくださいます。
そのことについても感謝します。
私たちに対して罪を犯した者たちを
私たちが心から赦すことができるように
どうか助けてください。
アーメン。
(関連聖句)「コロサイの信徒への手紙」3章12~17節