12月1日
シオンの娘よ、大いに喜びなさい、エルサレムの娘よ、歓声を上げなさい。見なさい、あなたの王様があなたのところへ来られます。この方は義なる方であり、勝利を得て、柔和にろばに乗っておられます。雌ろばの子である子ろばに乗っておられるのです。
(「ゼカリヤ書」9章9節)
この王様の御国に属し、堅い信仰をもって王様から離れずにいる者のことを、罪も死も、地獄も悪魔も、人間もどんな被造物も傷つけることはできません。そのような人は、救いの喜びに満ちた罪のない者として、その王様と同じように永遠に生きるのです。
12月2日
主イエス様は彼ら(十一弟子)に語り終わってから天にあげられ、神様の右にお座りになりました。
(「マルコによる福音書」16章19節)
このことは私たちのうちに救いの喜びに満ちた「誇り」を今にでも生み出すはずです。なぜなら、私たちはあらゆる被造物や天使たちよりも上位に、高貴な地位を与えられており、私たち自身と骨肉の関係にあるお方が神様の右にお座りになって、すべてを支配しておられることを、私たちは本当に誇ることができるからです。このような栄光は他のどんな被造物や天使にさえも与えられてはいません。それはまた、私たちにとって、私たち人間をひとつに溶かし私たちに燃えるような兄弟愛を与えるような「オーブン」でなければならないはずのものです。
12月3日
(「詩篇」2章12節より)
キリストが世の王様であり、すべてはこの方の足下におかれていることは、すでに決定されています。良い日々や平和を楽しみたいと望む者は、御子に口付けし、御子に聴き従わなければなりません。さもなければ、陶器のように打ち砕かれてしまうでしょう。
12月4日
夜の間は涙が止まりませんが[2]、朝には喜びが来ます。私は安らかな時に「私は決して揺らぐことがない」、と言いました。主よ、あなたはご好意によって(私を)堅固な山へと立たせてくださいました。(しかし)あなたが御顔を隠された時には、私は困り果てました。
(「詩篇」30篇6~8節より)
この詩篇には、安らかな良心がどのようなものであるかが美しく描かれています。ダヴィデは全世界を水滴ほどのものと見なし、その怒り狂った嵐のような力を恐れません。主は彼と共におられ、彼の岩を強めてくださいます。しかし、彼が躓き、主が彼から御顔を隠した時には、彼は慌てふためき、その勇気と岩とを失ってしまいました。
12月5日
私たちに定められたお祝いをする町、シオンを見なさい。あなたの目は、平和な住まい、取り壊されることも移動されることもない幕屋、エルサレムを見ます。(中略)そこに住む者は誰も「私は病気です」とは言いません。そして、そこに住む民は罪が赦されます。
(「イザヤ書」33章20、24節より)
神様は、人間の罪をこの生において取り去りお赦しになるところに、御自分の栄光と恵みを示されます。これが地上における「恵みの王国」です。しかし、完全な救いに満ちている「栄光の王国」においては、罪もその取り巻きである悪魔や死や地獄も、(人に)もはや苦しみをもたらすことはありません。