11月21日
あなたは何をするにも、人に対してではなく主に対してするように、心を込めて働きなさい。あなたたちは「御国を継ぐ」という報いを主からいただくことになることを知っておきなさい[1]。あなたたちは主キリストに仕えなさい。
(「コロサイの信徒への手紙」3章23~24節)
貧しい召使は次のように言うことができます、「私は食事を作ったり、ベッドを整えたり、床を掃除したりしています。私の主人がそうするように言ったからです。でも、誰が私を私の主人の家族に仕えるようになさったのでしょう?それは神様です。私は彼らにだけではなくて天の神様にもお仕えしている、というのは本当です。そして神様は私のやっていることを喜んでくださっています。これほど幸福なことはほかにはありません!」。
11月22日
聖書は、神様が異邦人を信仰に基づいて義とされることを前もって知っており、アブラハムに、「あなたによってすべての国民は祝福されるであろう」、と予告しました。このように、信仰に基づく者は信仰の人アブラハムと共に祝福を受けるのです。しかし、律法の行いに基づく者は皆のろいの下にあります。
(「ガラテアの信徒への手紙」3章8~10節より)
真のクリスチャンは、人々が「自分たちは何ほどの者でもなく、キリストがすべてにおいてすべてである」ことを知るようになることを目的として、キリストを賛美し宣教するときに、他のどのような行いよりも立派な行いをしています。
11月23日
この方(イエス様)こそは「あなたたち家造りの職人たちに軽んじられたにもかかわらず、隅のかしら石となった石」です。(イエス様以外の)他の誰によっても救いはありえません。この空の下、人間に与えられている(イエス様以外の)他のどのような名によっても、私たちは救われないからです。
(「使徒の働き」4章11~12節)
私たちはキリストとこの方の御国を正しく宣教しなければなりません。この方は私たちがお祈りするべき主です。この方を信じることによって、私たちは救われます。十字架につけられたナザレ人イエス様の御名には、人を救う力があります。
11月24日
その証とは、「神様は私たちに永遠の命を与えてくださった」ということと、「その命が御子のうちにある」ということです。
(「ヨハネの第一の手紙」5章11節)
イエス様の御名はこの世のいたる所で御言葉の中に響いています。イエス様は私たちの只中で目に見える存在であろうとはなさらず、むしろ、私たちがイエス様のことを御言葉の中に聴くことを望んでおられます。来るべき世では、イエス様の御名を宣教することはなくなり、私たちは神様の独り子を目にすることになります(「ヨハネの第一の手紙」3章2節)。この世では、私たちはイエス様を見ませんが、御言葉の中に聴くことができます。神様の独り子の御名がすべてにおいて大切な唯一のことです。
11月25日
あなたたちは木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとみなしなさい。木の良し悪しはその実でわかるからです。
(「マタイによる福音書」12章33節)
よい行いが人をクリスチャンにするのではなくて、クリスチャンが良い行いをするのです。実は木から生じて大きくなり、その木がどのようなものであるか、示します。しかし、「何かを示す」ことと「その何かである」ことは全く別のことなのです。