2011年5月18日水曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」11月21日~25日

 
1121

あなたは何をするにも、人に対してではなく主に対してするように、心を込めて働きなさい。あなたたちは御国を継ぐという報いを主からいただくことになることを知っておきなさい[1]。あなたたちは主キリストに仕えなさい。
コロサイの信徒への手紙32324節)

貧しい召使はのように言うことができます、「私は食事を作ったり、ベッドを整えたり、床を掃除したりしています。私の主人がそうするように言ったからです。でも誰が私を私の主人の家族に仕えるようになさったでしょう?それは神様です。私は彼らにだけではなくて天神様にもお仕えしているというのは本当です。そして神様は私のやっていることを喜んでくださっています。これほど幸福なことはほかにはありません!」。



1122

聖書は神様が異邦人を信仰に基づいて義とされることを前もって知っており、アブラハムに「あなたによってすべての国民は祝福されるであろう」と予告しましこのように、信仰に基づ者は信仰の人アブラハムと共に祝福を受けるのです。しかし、律法の行いに基づく者は皆のろいの下にあります
ガラテアの信徒への手紙3810節より)

のクリスチャンは、人々が自分たちは何ほどの者でもなくキリストがすべてにおいてすべてであることを知るようになることを目的として、キリストを賛美し宣教するときに、他のどのような行いよりも立派な行いをしています。



1123

この方(イエス様)こそは「あなたたち家造りの職人たちに軽んじられたにもかかわらず、隅のかしら石となった石」で。(イエス様以外の)他の誰によっても救いはありえません。この空の下、人間に与えられている(イエス様以外の)他のどのような名によっても私たちは救われないからで
使徒の働き41112節)

私たちはキリストとこの方の国を正しく宣教しなければなりません。この方は私たちがお祈りするべき主で。この方を信じることによって私たちは救われます。十字架につけられたナザレ人イエス様の御名には、人を力があります。



1124

その証とは、神様は私たちに永遠の命を与えてくださったということと、その命が御子のうちにあるということで
ヨハネの第の手紙511節)

イエス様の御名はこの世のいたる所で御言葉の中に響いています。イエス様は私たちの只中で目に見える存在であろうとはなさらず、むしろ私たちがイエス様のことを御言葉の中に聴くことを望んでおられます。来るべき世ではイエス様の御名を宣教することはなくなり、私たちは神様の独り子を目にすることになりますヨハネの第の手紙32節)。この世では私たちはイエス様を見ませんが、御言葉の中に聴くことができます。神様の独り子の御名がすべてにおいて大切な唯一のこと



1125

あなたたちは木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとみなしなさい。木の良し悪しはその実でわかるからで
マタイによる福音書1233節)

よい行いが人をクリスチャンにするのではなくて、クリスチャンが良い行いをするので。実は木から生じて大きくなり、その木がどのようなものであるか、示します。しかし「何かを示す」ことと「その何かである」ことは全く別のことなの


[1] 現在分詞。