2011年5月6日金曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」11月1日~5日

 
 
111

ダヴィデの最後の言葉。エッサイの子ダヴィデの託宣、すなわち高く上げられた、ヤコブの神様に油を注がれた、イスラエルのすばらしい賛美歌の作者の託宣。主の御霊は私を通して語ります。その御言葉は私の舌の上にあります。
サムエル記下2312節)

詩篇はあなたを分裂を引き起こす者たちから引き離し「聖徒の共同体」へと結び付けます詩篇はあなたを喜びや悲しみ、希望や恐れのなかで、すべての聖徒たちが考え話したのと同じように話し考えるように教えてくれるからでそれゆえ、単純明瞭に描かれている「キリスト教会」を見たいのならば、「詩篇を研究しなさい!詩篇のなかにあなたはクリスチャンの集まりとは如何なるのか、映してくれる美しく輝く鏡をもつことになります詩篇のなかにあなたは自分神様とあらゆる被造物を見出します



112日 

この方(キリスト)は、多くの罪のために唯一の永遠の犠牲を捧げた後神様の右に座し、今は敵が御自分の足台とされる時を待ちつづけておられます。キリストは唯一の捧げものによって聖とされる者たち[1]を永遠に全きものとしてくださいました。
ヘブライの信徒への手紙101214節)

聖化とはイエス・キリストのみもとへと急いで、この方の富を自分のものとすることで。そのようなことは、私たちは自分の力では到底できません



113

私たちははっきり死を覚悟しました。それは、私たちが自分自身を頼みとしないで死人をよみがえらせてくださる神様に信頼するようになるためでた。神様はこのような死の危険から私たちを救い出してくださいましまたこれからも救い出してくださるでしょう。
コリントの信徒への第の手紙1910節より)

神様は私たちが傲慢にも自分の力に頼ることを嫌われます。しかしこの罪は私たちの性質に付随しており、聖徒たちを、とりわけ最も抜きん出た聖徒たちを、第戒に反抗する罪へと誘い込もうとします



114

そこで、高慢にならないように私の肉体にひとつのが与えられました。それは高慢にならないように私を打つサタンの使者で。このことについて私はそれが私から離れ去るようにと3度も主に願いました。
コリントの信徒への第の手紙1278節)

このように主はその聖徒たちに対して取り計らわれます。もしも主がこのようになさらなければ、聖徒たちもまた高慢へと落ち込み、自分を神であるかのようにみなすようになったします。あるいはまた、私たち彼らを自分の偶像に仕立て上げ、神様の恵みよりも彼らの優秀さや人格の方により細かい注意を向けるようになってしまいます



115

「数によらず力によらず、私の霊によるのでと万軍の主は言われます
ゼカリヤ書46節より)

主は大人物を通して行いたくないことを御自分の取るに足らない聖徒を通じて実現なさいますエルサレム詣での折、まだ子供だったイエス様両親から離れてお隠れになり、母親が心配して御自分を捜すように取り計らわれました。復活されたときに主は母親にでも使徒たちにでもなく、まず初めにマグダラのマリアにあらわれまし主は母親に対してよりもサマリアの女や姦淫の罪を見つけられた女に対してより優しく話しかけました。ペテロが罪に陥り主を知らないと否定した一方で、十字架につけられた強盗は揺るぎない信仰を得ました。これらやこれらに似た驚くような例を通じて、神様は御霊の多様な働きかけを私たち人間が台無しにすることを許されないことを、教えておられます。


[1] 現在分詞。