11月1日
ダヴィデの最後の言葉。エッサイの子ダヴィデの託宣、すなわち高く上げられた者、ヤコブの神様に油を注がれた者、イスラエルのすばらしい賛美歌の作者の託宣。主の御霊は私を通して語ります。その御言葉は私の舌の上にあります。
(「サムエル記下」23章1~2節)
「詩篇」はあなたを分裂を引き起こす者たちから引き離し、「聖徒の共同体」へと結び付けます。「詩篇」はあなたを、喜びや悲しみ、希望や恐れのなかで、すべての聖徒たちが考え話したのと同じように話し考えるように教えてくれるからです。それゆえ、単純明瞭に描かれている「キリスト教会」を見たいのならば、「詩篇」を研究しなさい!「詩篇」のなかにあなたは、クリスチャンの集まりとは如何なるものか、を映してくれる「美しく輝く鏡」をもつことになります。「詩篇」のなかにあなたは、自分と神様とあらゆる被造物とを見出します。
11月2日
この方(キリスト)は、多くの罪のために唯一の永遠の犠牲を捧げた後、神様の右に座し、今は敵が御自分の足台とされる時を待ちつづけておられます。キリストは唯一の捧げものによって、聖とされる者たち[1]を永遠に全きものとしてくださいました。
(「ヘブライの信徒への手紙」10章12~14節)
「聖化」とはイエス・キリストのみもとへと急いで、この方の富を自分のものとすることです。そのようなことは、私たちは自分の力では到底できません。
11月3日
私たちははっきり死を覚悟しました。それは、私たちが自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせてくださる神様に信頼するようになるためでした。神様はこのような死の危険から私たちを救い出してくださいました。また、これからも救い出してくださるでしょう。
(「コリントの信徒への第二の手紙」1章9~10節より)
神様は私たちが傲慢にも自分の力に頼ることを嫌われます。しかし、この罪は私たちの性質に付随しており、聖徒たちを、とりわけ最も抜きん出た聖徒たちを、第一戒に反抗する罪へと誘い込もうとします。
11月4日
そこで、高慢にならないように私の肉体にひとつの棘が与えられました。それは、高慢にならないように私を打つサタンの使者です。このことについて、私はそれが私から離れ去るようにと3度も主に願いました。
(「コリントの信徒への第二の手紙」12章7~8節)
このように主はその聖徒たちに対して取り計らわれます。もしも主がこのようになさらなければ、聖徒たちもまた高慢へと落ち込み、自分を神であるかのようにみなすようになったりします。あるいはまた、私たちは彼らを自分の偶像に仕立て上げ、神様の恵みよりも彼らの優秀さや人格の方により細かい注意を向けるようになってしまいます。
11月5日
「数によらず力によらず、私の霊によるのです」、と万軍の主は言われます。
(「ゼカリヤ書」4章6節より)
主は大人物を通して行いたくないことを、御自分の取るに足らない聖徒を通じて実現なさいます。エルサレム詣での折、まだ子供だった主イエス様は両親から離れてお隠れになり、母親が心配して御自分を捜すようにと取り計らわれました。復活されたときに主は、母親にでも使徒たちにでもなく、まず初めにマグダラのマリアにあらわれました。主は母親に対してよりも、サマリアの女や姦淫の罪を見つけられた女に対して、より優しく話しかけました。ペテロが罪に陥り「主を知らない」と否定した一方で、十字架につけられた強盗は揺るぎない信仰を得ました。これらやこれらに似た驚くような例を通じて、神様は、御霊の多様な働きかけを私たち人間が台無しにすることを許されないことを、教えておられます。