2011年5月20日金曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」11月26日~30日

 
 
1126

それゆえ、この方(キリスト)は新しい契約の仲保者[1]。それは、はじめの契約のもとで行われた罪過から(私たち人間を)解放するためにこの方が死んでくださったおかげで、召された人々が約束された永遠の遺産を受け継ぐようになるためなの
ヘブライの信徒への手紙915節)
 
私は、たとえ天国が開かれているのを見たときに、「自分で藁を持ち上げるだけ天国に入れるよ」、と言われたとしても、私はそうしないでしょう。「私は自分の行いによって天国に入れるのだ」などとおごり高ぶらないようにするためで。そのようであってはなりません!栄光は私のものではなく、独り子を私のために与え私の罪を拭い去り、私を救ってくださった神様のものだからす。



1127

それゆえ、生まれてくる子は聖なる方であり、神の子と呼ばれることになるでしょう。
ルカによる福音書135節より)

神様とマリアの子である主イエス・キリスト、その罪なく流された血の力によって私たちを罪や死や神様の永遠の怒りから贖うために、私たち哀れな罪人のために苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られました。この方は日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、父なる全能の神様の右の座におられますこのことを私は信じます。



1128

なさい、私は(すでに)戸口に立っており[2]、たたいています[3]誰でも私の声を聞いて戸を開けるなら[4]、私はその人のいる場所来て[5]、食事を共にし[6]、その人もまた私と共にいることになるしょう。
(ヨハネの黙示録320)

あなたがキリストを探しているのではなく、キリストがあなたを探しておられるのです。あなたはキリストを見つけませんが、キリストはあなたを見つけます。あなたの信仰はキリストから来ます。キリストが来られないところではあなたも外に取り残されます。福音のないところには神様おられません。そこにあるのは罪と腐敗だけで



1129

自由へとキリストは私たちを解放してくださいまし[7]。あなたたちは堅く立ち、もう決して奴隷のくびきにつながれてはなりません
ガラテアの信徒への手紙51節)

なさい!これが真キリスト教的なあがないと解放。すなわち、私たちは律法や律法による裁きや罪や死からキリストのゆえに、贖われ自由にされたので。それは律法や死がもはや存在しなくなった、という意味ではなく、それらがまるで存在しないかのように無力になっているということで。律法が私たちを罪へと引きずっていくこともなければ、死が私たちを困惑させることもありません。信仰私たちを義[8]や永遠の命へと導いていくから



1130

この方は柔和な方としてろばに乗、くびきを負うロバの子に乗り、あなたのところへ来られます
マタイによる福音書215節より)

この方は(あなたのところに)来られます。それは確実で。あなたがこの方のところに行ってお迎えにあがるわけではありません。この方はあなたにとって尊すぎ、遠すぎるからです。お金をどんなに積んでも、いくら仕事をしても、いくら苦労しても、この方には近づくことができません。それはあなたが自分の功績や功能によってこの方を出迎えたなどと自慢できないようにするためなの。友よ、どのようなことをやり遂げたかとかどれほど有能であるかとかそのようなことはこの方のみもとに行くためには何の役にも立ちません。あなたにはまったく功績もなければ功能もないのです。しかしこの方は恵みと憐れみに満ちておられます


[1] 「神様と人の仲立ちになってくださる方」という意味。
[2] 完了形。すでに完了しており、その結果が今も継続していることをさす。
[3] 現在形。今継続している状態をさす。
[4] 接続法アオリスト。可能性をあらわす構文で使われる。戸をキリストに対して開けるのか、開けないのか。
[5] 未来形。
[6] 未来形。
[7] 直説法アオリスト。過去における一回的な出来事をさす。
[8] 「義」とは神様から受け入れていただける状態をさす。