11月26日
それゆえ、この方(キリスト)は新しい契約の仲保者[1]です。それは、はじめの契約のもとで行われた罪過から(私たち人間を)解放するためにこの方が死んでくださったおかげで、召された人々が約束された永遠の遺産を受け継ぐようになるためなのです。
(「ヘブライの信徒への手紙」9章15節)
私は、たとえ天国が開かれているのを見たときに、「自分で藁を持ち上げるだけで天国に入れるよ」、と言われたとしても、私はそうしないでしょう。「私は自分の行いによって天国に入れるのだ」、などとおごり高ぶらないようにするためです。そのようであってはなりません!栄光は、私のものではなく、独り子を私のために与え、私の罪を拭い去り、私を救ってくださった神様のものだからです。
11月27日
それゆえ、生まれてくる子は聖なる方であり、「神の子」と呼ばれることになるでしょう。
(「ルカによる福音書」1章35節より)
「神様とマリアの子である主イエス・キリストは、その罪なく流された血の力によって私たちを罪や死や神様の永遠の怒りから贖うために、私たち哀れな罪人のために苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られました。この方は三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、父なる全能の神様の右の座におられます」。このことを私は信じます。
11月28日
見なさい、私は(すでに)戸口に立っており[2]、たたいています[3]。誰でも私の声を聞いて戸を開けるなら[4]、私はその人のいる場所に来て[5]、食事を共にし[6]、その人もまた私と共にいることになるでしょう。
(「ヨハネの黙示録」3章20節)
あなたがキリストを探しているのではなく、キリストがあなたを探しておられるのです。あなたはキリストを見つけませんが、キリストはあなたを見つけます。あなたの信仰はキリストから来ます。キリストが来られないところでは、あなたも外に取り残されます。福音のないところには神様がおられません。そこにあるのは罪と腐敗だけです。
11月29日
(「ガラテアの信徒への手紙」5章1節)
見なさい!これが真にキリスト教的な「あがないと解放」です。すなわち、私たちは律法や律法による裁きや罪や死から、キリストのゆえに、贖われ自由にされたのです。それは、律法や死がもはや存在しなくなった、という意味ではなく、それらがまるで存在しないかのように無力になっている、ということです。律法が私たちを罪へと引きずっていくこともなければ、死が私たちを困惑させることもありません。信仰が私たちを義[8]や永遠の命へと導いていくからです。
11月30日
この方は柔和な方としてろばに乗り、くびきを負うロバの子に乗り、あなたのところへ来られます。
(「マタイによる福音書」21章5節より)
この方は(あなたのところに)来られます。それは確実です。あなたがこの方のところに行ってお迎えにあがるわけではありません。この方はあなたにとって尊すぎ、遠すぎるからです。お金をどんなに積んでも、いくら仕事をしても、いくら苦労しても、この方には近づくことができません。それは、あなたが自分の功績や功能によってこの方を出迎えた、などと自慢できないようにするためなのです。友よ、どのようなことをやり遂げたか、とか、どれほど有能であるか、とか、そのようなことは、この方のみもとに行くためには何の役にも立ちません。あなたにはまったく功績もなければ功能もないのです。しかし、この方は恵みと憐れみに満ちておられます。