10月26日
また私は天からの声がこう言うのを聞きました、「書き記しなさい、『今から後、主にあって死ぬ者たちはさいわいです』」。「そのとおり」と御霊も言われます、「彼らはその労苦から解かれて休息を得、その行いは彼らに伴います」。
(「ヨハネの黙示録」14章13節)
「第二の死」(終わりの日に復活して永遠の死という裁きを受けること)は信仰者に対しては支配力を失い、キリストを通して命へとかえられています。あとに残っているのは、ほんの小さな死の胎、砂糖のように甘い死だけです。クリスチャンは死ぬことを通して、その「肉」(この世での身体)が不信仰、重くのしかかる罪、悲惨、悲しみ、誘惑から解放され、信仰、永遠の義、完全性、喜びへと移っていきます。この死(主に会って死ぬこと)は地上でのどのような人生よりも甘いものです。心に咎めがなく、信仰と永遠の命の確信をもって死ぬことは、私たちがこの人生や物や享楽から得ることができるような喜びよりも大きな喜びです。
10月27日
私たちのうち、誰一人自分のために生きる者はなく、誰一人自分のために死ぬ者もいません。もしも私たちが生きるのならば、主のために生きるのであり、もしも私たちが死ぬのならば、主のために死ぬのです。生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものなのです。
(「ローマの信徒への手紙」14章7~8節)
死がどんな意味をもっているか、ここからわかります。死は彼らにとって勝利です。死は彼らを傷つけるどころか、彼らに襲いかかってきたときに自分を痛めつけてしまいます。死ぬときに私は勝つのです。私はそうしてより速やかに命へと入ることができるからです。
10月28日
(「ダニエル書」12章13節)
クリスチャンの死は夢です。それを通してクリスチャンは命へと入ります。しかし、神様をないがしろにする者は命を捨てて永遠の死を得ます。あなたがたは次のように確信してよいのです、「キリストを信じて先にこの世を去ったあなたがたの友たちは死んだのではなく、甘く心地よい夢を見つつ眠っています。そして最後の日に、栄光に満ち太陽よりも眩しく光を放っている体をまとって復活するのです」。
10月29日
彼(アブラハム)はこの神様、すなわち死んだ者たちを活ける者とし、「存在しないもの」から「存在するもの」を呼び出される方、を信じたのです。
(「ローマの信徒への手紙」4章17節より)
神様は言われます、「私は「存在しないもの」が存在するようになるように呼び出し、嘆きや心の苦しみすべてを喜びに変えます。そしてこう言います、『死や墓よ、命へと変わりなさい!地獄よ、天国や救いに変わりなさい!毒よ、最良の薬に変わりなさい!悪魔や世よ、愛する私の天使たちや真摯な聖人たち以上に、私のものであるクリスチャンたちの益となるように働きなさい!私は、ありとあらゆる不幸や苦難を通して、自分の庭の世話をして耕し、それをよりよくしていくのです』」。
10月30日
私はあなたたちに言いますが、招待されていたあの者たちのうちで、私の晩餐にあずかる者はひとりもいないでしょう。
(「ルカによる福音書」14章24節)
福音の説教を受け入れない者は、たとえどんなに賢く上流の者であっても、ここで裁きを耳にすることになります。彼らは神様の晩餐にあずかることができず、神様の怒りが彼らの上に留まり、そして彼らは不信仰のゆえに滅びるのです。しかし、福音を受け入れた私たち、心が罪におびえて神様の恵みを斥けたりしない私たちは、怒りの代わりに恵みをいただき、罪の代わりに永遠の義をいただき、死の代わりに永遠の命をいただきます。
10月31日
生まれたての赤ちゃんのように、混じりけのない霊的な乳を慕い求めなさい。それによって、救いへと向けて成長していくためです。あなたがたは、主がよい方であることを味わったはずでしょう。
(「ペテロの第一の手紙」2章2~3節)
心で信じるときに私は、「キリストが御自分を私に贈って、私のものになってくださった」ことや、「私の不幸はキリストのものであり、キリストの命は私のものである」ことを味わい知ったのです。このことは、心がそれを知るときに本当に美味しく感じられます。そして、それは深い喜びをもたらすのです。
[1] あるいは「日々」。