もしも律法を通して義とされるのなら、
キリストは無駄に死なれたことになります。
(「ガラテアの信徒への手紙」2章21節より)
この御言葉はとくに迫力があります。
ここでパウロは人間の力や理性や知恵などには見向きもしません。
たとえそれらがどれほど偉大だったとしてもです。
それらが偉大であればあるほど、より容易に人は自分を欺くものです。
パウロははっきりこう言います、
「もしも義が律法によって手に入るのなら」。
たとえ神様の律法が助けに駆けつけても、
人間の理性なるものは、私たちを義とせず、
逆に義から引き離し、キリストを捨てます。
というのは、
かりに律法が義をもたらすなら、
キリストは無駄に死なれたことになるからです。
単純に、
キリストの死をあらゆる律法に対置してごらんなさい。
パウロと同様に、
十字架につけられたイエス・キリスト以外のことを
知ろうなどとは考えないようにしなさい。
そうすれば、
キリストの傍らで、すべてがその輝きを失ってしまいます。
そしてあなたは、
御言葉を正しく学んだ義で聖なる者となり、
あなたを清い御言葉と信仰の中で守られる聖霊様をいただきます。
ところが、
もしもキリストを見失ってしまうなら、
すべては無駄になってしまうのです。