善きわざは信仰の行いです
(「ヨハネによる福音書」14章12節)(その1)
木が実をつけるのと同じような自然さで、よい行いが信仰からでてきます。
木が実をつけるよう無理やり命じられているわけではないのと同じように、
信仰者にも命令が与えられているわけではありません
(「テモテへの第一の手紙」1章5節)。
信仰者は、よいことを行うように要求されているわけではなく、
自分からすすんでそれを行うのです。
ちょうど、
信仰者が命令なしに
ひとりでに寝たり、食べたり、飲んだり、服を着たり、
見たり、聞いたり、話したり、歩いたり、立ったりするように。
人がよい行いをし、助け、諭し、ほかの人たちに分け与えなければならない、
というのは本当です。
しかし、それらの行為のゆえに
その人が「クリスチャン」と呼ばれるわけではありません。
なぜなら、
人が白いから白人と呼ばれ、黒いから黒人と呼ばれ、
偉大だから偉人と呼ばれるのと同じように、
私たちもまた、キリストのゆえにクリスチャンと呼ばれるのです。
このキリストが私たちのなかにおられ、
このキリストから私たちはすべてのよいものをいただいています。
もしも私がキリストのゆえにクリスチャンと名づけられているのならば、
自分自身の行いのゆえに私がクリスチャンと呼ばれるのではないことは、
明らかです。
これからわかるのは、
誰も自分の仕事のゆえにクリスチャンになるわけではない
ということです。