2011年1月26日水曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」5月6日~10日

 
56
 
神様の御国は食べることや飲むことではなく、聖霊様における義と平和と喜びです
ローマの信徒への手紙1417節)

神様の御国は、キリストが忠実な王様として信仰者を支配し守り懲らしめ褒美を与え導くところであり、信仰者がキリストに信頼し喜んでキリストの父親的な懲罰を受け入れ従順にキリストに従うところです。それは、この世的な国はなく、時間に束縛された国でもなく霊的な御国で。それは食べることでも飲むことでもなくその他表面的なことでもなく、義であり人々の心や良心を慰めるものです。



57

信じて洗礼を受けた者は[1]救われるでしょう。しかし、信じない者は[2]滅びの宣告を受けるでしょう。
マルコによる福音書1616節)

悔い改めたときに私たちは単純に、洗礼において私たちに与えられた約束に戻り、洗礼の力に戻り堕落した私たちが見失ってしまっていた信仰に戻ります。悔い改める者は、なによりもまず、洗礼について考え、神様の約束を思い起こして、洗礼を受けていることを神様に感謝するべきです



58

信仰の祈りは病み疲れている者を救い、主が彼を立たせてくださいます[3]。もしもその人が罪を行っていたのであれば[4]、それはその人に対して赦されるでしょう。
ヤコブの手紙415節)

たとえ仮にあなたが全世界を悔い改めさせ、生き返らさせ、死なせ、自分や他のすべての者を天国へと連れて行ったり、奇跡を行うことができるとしても、あなたが神様の御心をそれより大切なものと見なさず、自分の意志を捨てて神様の御心に従わせ、「神様、これは私にはよいことだと思われますので、もしもそれがあなたの御心に適うならば実現しますように。もしも御心に適わないならば実現しませんように」と言うつもりがないならば、あなたはそのようなことを望むべきではありません



59

彼らは家に入って母マリアとにいる幼子に会い、ひれ伏して拝み、彼らの宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬といった贈り物をささげました。
マタイによる福音書211節)

私たちは東の国の博士たちが自分や他人の力によってキリストを見つけたなどと決して考えてはいけません。彼らはキリストを預言者の言葉と空に出現した星の助けによって見つけたので。これは、人間のあらゆる英知や理性、昨今では盲目な大学関係者が真理を教え正義を行うものと喧伝している「御霊や恵みの外側にある光」などというものが実はガラクタにすぎないと宣言しているのに等しいものです。実際のところ、人はキリストすなわち救いをもたらす真理を人間的な教えや助けによっては見つけることも知ることもできません。キリストを告知するのは聖書と神的な光」のみ。キリストもこう言われています、「ヨナの子シモン、あなたはさいわいです。これをあなたに明らかに示したのは、肉でも血でもなく天にいます私の父からでマタイによる福音書1617節)



510

主は彼に地の丘を乗り越えさせ、野の産物を食べさせ、岩から蜜を吸わせ、硬い岩からオリーブ油を吸わせられました。
申命記3213節)

これはどういう意味でしょうか。どのようにすれば硬い岩に蜜がたまりオリーブが生えるなどということがありうるでしょうか。しかしそのようになるので。最も美味しい実をつける穀類や木は硬い岩地に植えられており、そこで岩地から力と養分を吸い上げて大きくなるので。もしも石像が私たちの目の前で油や蜜を滴らせるなら、世界中が奇跡中の奇跡としてそれについて吹聴するでしょう。しかし、私たちは今も毎日このような植物が生え出る野原や田畑を通っているにもかかわらず、それを見もせず理解もしないので


[1] どちらもアオリスト分詞。
[2] アオリスト分詞。
[3] どちらの主動詞も未来形。
[4] 接続法完了形。