5月6日
神様の御国は食べることや飲むことではなく、聖霊様における義と平和と喜びです。
(「ローマの信徒への手紙」14章17節)
神様の御国は、キリストが忠実な王様として、信仰者を支配し、守り、懲らしめ、褒美を与え、導くところであり、信仰者がキリストに信頼し、喜んでキリストの父親的な懲罰を受け入れ、従順にキリストに従うところです。それは、この世的な国ではなく、時間に束縛された国でもなく、霊的な御国です。それは、食べることでも飲むことでもなく、その他表面的なことでもなく、義であり、人々の心や良心を慰めるものです。
5月7日
(「マルコによる福音書」16章16節)
悔い改めたときに、私たちは単純に、洗礼において私たちに与えられた約束に戻り、洗礼の力に戻り、堕落した私たちが見失ってしまっていた信仰に戻ります。悔い改める者は、なによりもまず、洗礼について考え、神様の約束を思い起こして、洗礼を受けていることを神様に感謝するべきです。
5月8日
(「ヤコブの手紙」4章15節)
たとえ仮にあなたが全世界を悔い改めさせ、生き返らさせ、死なせ、自分や他のすべての者を天国へと連れて行ったり、奇跡を行うことができるとしても、あなたが神様の御心をそれよりも大切なものとは見なさず、自分の意志を捨てて神様の御心に従わせ、「神様、これは私にはよいことだと思われますので、もしもそれがあなたの御心に適うならば実現しますように。もしも御心に適わないならば実現しませんように」、と言うつもりがないならば、あなたはそのようなことを望むべきではありません。
5月9日
彼らは家に入って母マリアと共にいる幼子に会い、ひれ伏して拝み、彼らの宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬といった贈り物をささげました。
(「マタイによる福音書」2章11節)
私たちは、東の国の博士たちが自分や他人の力によってキリストを見つけた、などと決して考えてはいけません。彼らはキリストを、預言者の言葉と空に出現した星の助けとによって見つけたのです。これは、人間のあらゆる英知や理性、昨今では盲目な大学関係者が真理を教え正義を行うものと喧伝している「御霊や恵みの外側にある光」などというものが実はガラクタにすぎないと宣言しているのに等しいものです。実際のところ、人は「キリストすなわち救いをもたらす真理」を人間的な教えや助けによっては見つけることも知ることもできません。キリストを告知するのは「聖書と神的な光」のみです。キリストもこう言われています、「ヨナの子シモン、あなたはさいわいです。これをあなたに明らかに示したのは、肉でも血でもなく、天にいます私の父だからです」。(「マタイによる福音書」16章17節)
5月10日
主は彼らに地の丘を乗り越えさせ、野の産物を食べさせ、岩から蜜を吸わせ、硬い岩からオリーブ油を吸わせられました。
(「申命記」32章13節)
これはどういう意味でしょうか。どのようにすれば硬い岩に蜜がたまりオリーブが生えるなどということがありうるでしょうか。しかしそのようになるのです。最も美味しい実をつける穀類や木は硬い岩地に植えられており、そこで岩地から力と養分を吸い上げて大きくなるのです。もしも石像が私たちの目の前で油や蜜を滴らせるなら、世界中が奇跡中の奇跡としてそれについて吹聴するでしょう。しかし、私たちは今も毎日このような植物が生え出る野原や田畑を通っているにもかかわらず、それを見もせず理解もしないのです。