4月21日
私は神の熱情をもってあなたたちを熱愛しています。私はあなたたちを聖い乙女としてただひとりの男子、キリストにささげるために、婚約させたのです。
(「コリントの信徒への第二の手紙」11章2節)
日々花嫁をキリストのために準備させキリストへと導く使徒の職務は、求婚者や婚約者たちの職務とはまったく異なる何かです。
4月22日
夫たちよ、キリストが教会を愛し、御自分を彼らのために差し出されたように、あなたたちは妻たちを愛しなさい。キリストがそうされたのは、御言葉における水の洗いによって清め聖別し、教会を、輝きにみちた、しみやしわやその種のものが一切ない聖なる申し分のないものとして、御自身の前に据えなさるためです。
(「エフェソの信徒への手紙」5章25~27節)
キリストは言われます、「私の花嫁にかまわうな。もしも彼女に落ち度があれば、私はそれをなおしたい。もしも彼女が十分に美しくもきれいでもないなら、私は彼女を美しく飾り清めます。もしも彼女があなたの気に入らない場合であっても、私が彼女を選びきれいに洗ったから、私は彼女が気に入っているのです。たとえ彼女がまだ罪や死や病気で苦しんでいても、私には義と命とあらゆる永遠の宝物があり、それらによって私は彼女を着飾ります」。
4月23日
自分自身[1]を憎んだ者は今までひとりもいません。それとは逆に、人は、キリストが教会になさっているのと同じように、自分に栄養を与え、暖めるものです。私たちはキリストのからだの一部なのです。(中略)この奥義は偉大です。私はキリストと教会について語っているのです。
(「エフェソの信徒への手紙」5章29~30,32節)
キリストは私と共にひとつのからだであり、ちょうど花婿が花嫁にするように、何をお持ちか、何をなさるか、私に知らせてくださいます。夫婦はすべてを、からだを、栄光を、持ち物を、共通のものと見なしています。
4月24日
私は、彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を通して私を信じている人たちのためにもお願いします。それは、ちょうど、父よ、あなたが私のうちにおられ、また、私があなたのうちにいるように、皆がひとつであるためであり、彼らもまた私たちのうちにいるためであり、あなたが私を派遣されたことをこの世が信じるためです。あなたが私に与えてくださった栄光を、私もまた彼らに与えました。それは、私たちがひとつであるように、彼らもひとつであるためです。
(「ヨハネによる福音書」17章20~22節)
「私は何者か」とか「あなたは何者か」という問題をめぐる戦いが止む時、すなわち、私の義でもあなたの義でもなくキリストの義のみが神様に受け入れられる時、自然に平和が訪れます。なぜなら、私たちは皆、恵みが必要な罪人であるからです。キリストにあってすべての人はひとつであり、誰も他の人の上に立つ理由はありません。
4月25日
(「ヨハネによる福音書」14章23節)
この地上に生きている貧しく惨めな私たち人間が神様の住まいや庭、楽園や天国(!)にさえなりうるということほど、偉大な栄光と光輝があるでしょうか!これは、最上の、慰めに満ちた、素晴らしい、貧しく惨めな私たちに与えられた(ペテロが言っているように)最高にして最大の贈り物のうちのひとつです。それは、私たちが神様の本質にあずかって「上流階級」に所属するため、また神様が私たちをキリストを通して愛してくださるだけでも、私たちがキリストの恵みや好意をいただくだけでもなく、私たちがキリストを自分のものとしキリスト御自身が私たちのうちに住んでくださるために与えられているのです。