5月1日
あなたたちは求めつづけなさい[1]。そして、あなたたちに与えられるでしょう[2]。あなたたちは探しつづけなさい。そして、あなたたちは見出すでしょう。あなたたちはたたきつづけなさい。そして、あなたたちに開かれるでしょう。
(「マタイによる福音書」7章7~8節)
もしも祈りをたった一日でも怠ると、私は暖かさや信仰の大部分を失ってしまいます。唯一最も明瞭で確実な祈り方は次に述べます。奥の部屋か目立たない部屋の隅に引っ込みなさい。嘆きため息をつき神様にすっかり心を打ち明けなさい。忠実な天国のお父様なる神様はあらゆる困難においてあなたに助言と救いの手を差し伸べようと望んでおられることに慰められ、また依り頼みなさい。
5月2日
また、私はあなたがたによく言っておきます。もしもあなたがたのうち二人がこの地上で心を合わせ、すべての事柄について願い求めるならば、それは天におられる私の父から彼らに与えられるでしょう。
(「マタイによる福音書」18章19節)
主の祈りが教会にとってどれほど強固な防壁であり、神様を畏れるクリスチャンにとってどれほど強力な武器であるかは、恵みと祈りの御霊をいただいているクリスチャン信仰者だけが知っています。死も逃げ去るほどに、クリスチャンたちが互いのために一緒になって祈り、力づけられるために、主の祈りは人々をひとつにし、互いに結びつけます。
5月3日
あなたの御名が聖とされますように。
(「マタイによる福音書」6章9節より)
神様の御名はそれ自体聖であり、私たちが聖とするものではない、ということに注目しなさい。なぜなら、神様の御名はすべてを、私たちさえをも、聖とするからです。聖キュプリアヌスも言っているように、私たちは御名を自分自身においても聖とするべきです。なぜなら、そのとき神様がすべてとなり、人間は取るに足りない者になるからです。これが実現するのは、神様の御言葉について純粋かつ明瞭に教えがなされ、私たちが神様の子供として御言葉の通りに信じ、正しく生きるときです。私たちがこのように信じて生きるように、愛する天のお父様、助けてください!しかし、神様の御言葉に反対して教えまた生きる者は、神様の御名を私たちの只中で汚すことになります。私たちがそうならないように、愛する天のお父様、守ってください!
5月4日
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたのよい行いを見て、天におられるあなたがたのお父様をあがめるようになるためです。
(「マタイによる福音書」5章16節)
「よい行い」とキリストが呼んでおられるのは、私たちがキリストの教えを熱心に実践し、告白し、またそのゆえに苦しむことです。このことからわかるのは、主がここで語っておられるのは、私たち皆が愛をもって互いに行うべき普通のわざについてではなく、なによりもまず、正しく教え信仰について助言しその成長を支え強めることによって実践される、正しいキリスト教的な行いについてです。
5月5日
あなたの御国が来ますように。
(「マタイによる福音書」6章10節より)
自分の力に頼るとき悪魔の王国に加担せずにすむような者はひとりもいません。それゆえ、皆が「あなたの御国が来ますように」と祈るべきです。神様の御国はこの世で始まり大きくなっていきますが、それが完全になるのは永遠の世においてです。預言者ゼカリヤが素晴らしい言葉で描いているように、キリストの御国において働いてくださっているのは、恵みと祈りの御霊です。御霊は、信仰者の心に住んでおられ、父や御子と共に話しかけ、働きかけ、慰めて、罪や死や悪魔の力に打ち勝つための忍耐を与えてくだいます。