4月16日
主は牧者のようにその群れを飼い、その腕に小羊たちを抱きかかえ、その懐に入れて携え、母羊たちを導かれます。
(「イザヤ書」40章11節)
キリストを次のようなお方として描いて説教すべきです。キリストは、たとえどれほど弱かろうとも、誰ひとり、お見捨てにはなりません。御自分が常に義しく良い羊飼いであることを皆が理解するようになるために、一人一人を集め、慰め、強めてくださるのです。そのようなお方としてキリストを宣べ伝えれるならば、人々はキリストの御許へと、無理に強いなくても自分から進んで、また誰に急き立てられるでもなく、やって来るようになるでしょう。
4月17日
私はよい羊飼いです。私は私の羊を知っており、私の羊は私を知っています。それはちょうど、父が私を知っているように私もまた父を知っているのと同じです。私は羊たちのために私の命を差し出します。
(「ヨハネによる福音書」10章14~15節)
ということは、私たちは自分の中にある何かや自分を通して生じる何かに基づいてクリスチャンになるのではないのです。それではどのようにして私たちはクリスチャンになるのでしょうか?キリストを知り、キリストを愛することによって、また、御自分の羊のためにその命をささげまた御自分の羊のことを知っているよい羊飼いとしてキリストを受け入れることによってのみ、私たちはクリスチャンになるのです。そして、キリストもそのような方であられたいと望まれていま。これを知ることが、ほかならぬ福音の御言葉によって生じる信仰なのです。
4月18日
私の羊は私の声を聞き分けます。私は彼らを知っており、彼らは私に従います。私は彼らに永遠の命を与えます。彼らは決して滅びず、誰も彼らを私の手から奪い去ることはありません。
(「ヨハネによる福音書」10章27~28節)
あなたがこの良い羊飼いを知っているときには、悪魔や死から守られてこう言うことができます、「私が神様の戒めを守らなかったのは確かです。しかし、私は愛する主イエス・キリストの羽の保護の下へと逃げ込みます。神様の御前において、主は愛する私の羊飼い、ビショップ、仲介者であられ、御自分の無垢によって私を覆って守り、また私に御自分の義を賜ってくださる、と私は信じます」。
4月19日
(「ヨハネによる福音書」3章29節)
この世には、その始まりから終わりまで、ただおひとりの花婿キリストがおられたし、またおられることになります。この世の始まりから終わりまで、キリストを信じる教会は、キリストの花嫁です。ヨハネがキリストを花婿と呼んでいるのは大いなることです。なぜなら、花婿と花嫁とが所有しているものは、ふたりに共通のもちものだからです。
4月20日
そういうわけですから、今やいかなる滅びの宣告もキリスト・イエスにある者には下されません。
(「ローマの信徒への手紙」8章1節)
信仰は、花嫁をその夫へと結びつけるように、魂をキリストへと結びつけます。キリストのもちものはすべて信仰者の魂のもちものです。信仰者の魂のもちものはすべて、キリストのもちものです。キリストには祝福と救いのみがあり、それらはまた魂のもちものとなります。一方、魂には罪や不義がありますが、それらはこうしてキリストのもちものとなります。これが祝福された「交換売買」です。