4月6日
神様が御子をこの世に遣わされたのは、この世を裁くためではなく、この世が御子を通して救われるためです。
(「ヨハネによる福音書」3章17~18節)
一番大きな罪は、神様が恵みにより人間に対してそのすべての罪を赦してくださろうとしているのに、人間がその不信仰によって神様の恵みと真理とを虚偽呼ばわりし、キリストの死と復活を受け入れない、ということです。
4月7日
もしもキリストが復活しなかったのならば[1]、あなたたちの信仰は無駄であり、あなたたちは依然として自分自身の罪の中にいるのです。そしてまた、キリストにあって眠りに就いた者たちは滅んでしまったことになります。もしも私たちがこの世の人生の間だけキリストにあって希望を抱いている者ならば、私たちはあらゆる人間の中でも一番哀れな存在です。しかし今やキリストは、死人たちの中から、眠りに就いた者たちのうちの長子として復活されたのです。
(「コリントの信徒への第一の手紙」15章17~20節)
次のことをよく考えてみなさい。もしも神様があなたの罪をキリストの上に投げて、それらがもはやあなたの上にないならば、キリストが復活された後に、それらの罪はどこにあるのでしょうか。というのは、それらはもはやキリストの上にもないからです。預言者ミカが言っているように、それらは悪魔もいかなる被創造物ももはや見つけることができないような海の底にあるのです。
4月8日
私たちの服は、アダムの皮膚、死の衣装、罪の服、です。言い換えれば、私たちは皆、罪の支配下で屈従を余儀なくされています。私たちは恐るべきほど盲目で無知であり、神様を軽んじ神様に怒っています。その上、私たちは悪い欲望や汚れや貪欲などに満ちています。この服、すなわち、私たちの罪の性質を、私たちはすでに受胎のときにアダムから受けたのです。私たちはそれをすべての行いと共に脱ぎ去らなければなりません。しかし、それは服を代えることによっては成功しません。どんな律法や行いによってもだめです。それが実現するのは、パウロが「キリストにあって洗礼を受けたあなたたちは皆、キリストを身に着けたのです」と言っている通り、洗礼における新しい誕生と新しい変化によってです。
キリストは、律法でも、律法を与える者でも、行いでもありません。キリストは、天のお父様が私たちを義とし活きる者とし贖う方として私たちに贈ってくださった、言葉では表せない神的な贈り物です。「キリストを着る」ことは律法や行いに身を包むことではなく、言いようもなく素晴らしい贈り物、すなわち、罪の赦し、義、平和、慰め、聖霊様における喜び、救い、命、つまりキリスト御自身を着ることなのです。
4月9日
(「ヨハネによる福音書」14章19節より)
私たちは「キリストは死者たちの中から復活された」という御言葉に十分注意を払い、このこと以外は見ず聴かず考えず知らずにいるために、それぞれの文字を教会の塔かさらには天や地ほどもある大きさで備忘録に書き留めるべきです。もしもこの御言葉を信じるならば、私たちは安心して生きまた死ぬことができます。なぜなら、キリストは死に打ち勝ち死者たちから甦っただけではなく、私たちをもまたこの勝利に与る者としてくださったからです。
4月10日
兄弟たちよ、私があなたたちに伝えた福音、あなたたちが受け入れその中にあなたたちが立ってきた福音を、私はあなたたちに思い起こさせます。もしもあなたたちがいたずらに信じないで、私があなたたちに伝えた言葉を堅く守るならば、この福音によってあなたたちもまた救われるのです。
(「コリントの信徒への第一の手紙」15章1~2節)
キリストを信じなさい。そうすれば、あなたは正しい道にいます。キリストにとどまりなさい。そうすれば、あなたは正しい方へと歩みます。終わりまでたゆまずにそれを続けなさい。そうすればあなたは救われます。「私たちが生き続ける限り、キリストの復活と王国にはこの地上に独自の道をもっている」ことを、パウロは私たちに教えようとしています。その道は、御言葉と見えないキリストに頼りきる信仰とによって見出され、罪や死に打ち勝ち、それらに代わって義や命をキリストを通して得るのです。