2011年1月12日水曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」4月6日~10日

46

神様が御子をこの世に遣わされたのは、この世を裁くためではなく、この世が御子を通して救われるためで
ヨハネによる福音書31718節)

一番大きな罪は、神様が恵みより人間に対してそのすべての罪を赦してくださろうとしているのに、人間がその不信仰によって神様の恵みと真理とを虚偽呼ばわりし、キリストの死と復活を受け入れない、ということで



47

もしもキリストが復活しなかったのならば[1]、あなたたちの信仰は無駄であり、あなたたちは依然として自分自身の罪の中にいるので。そしてまた、キリストにあって眠りに就いた者たちは滅んでしまったことになります。もしも私たちがこの世の人生の間だけキリストにあって希望を抱いている者ならば、私たちはあらゆる人間の中で一番哀れな存在。しかし今やキリストは死人たちの中から、眠りに就いた者たちのうちの長子として復活されたので
コリントの信徒への第の手紙151720節)

次のことをよく考えてみなさい。もしも神様があなたの罪をキリストの上に投げそれらがもはやあなたの上にないならば、キリスト復活された後にそれら罪はどこにあるのでしょうか。というのは、それらはもはやキリストの上にもないからで。預言者ミカが言っているように、それらは悪魔もいかなる被創造物ももはや見つけることができないような海の底にあるので



48

キリストにあって洗礼を受けたあなたたちは皆、キリストを身に着けたので[2]ガラテアの信徒への手紙327節)

私たちの服は、アダムの皮膚、死の衣装、罪の服、で。言い換えれば、私たちは皆罪の支配下屈従を余儀なくされています。私たちは恐るべきほど盲目で無知であり、神様を軽んじ神様に怒っています。その上、私たちは悪い欲望や汚れや貪欲などに満ちています。この服すなわち私たちの罪の性質を、私たちはすでに受胎のときにアダムから受けたので。私たちはそれをすべての行いと共に脱ぎ去らなければなりません。しかしそれは服を代えることによっては成功しません。どんな律法行いによってもだめで。それが実現するのは、パウロが「キリストにあって洗礼を受けたあなたたちは皆、キリストを身に着けたので」と言っている通り、洗礼における新しい誕生と新しい変化によってで
 キリストは、律法でも、律法を与える者でも、行いでもありません。キリストは、天のお父様が私たちを義とし活きる者とし贖方として私たちに贈ってくださった、言葉では表せない神的贈り物でキリストを着ることは律法や行いに身を包むことではなく、言いようもなく素晴らしい贈り物すなわち罪の赦し、義、平和、慰め、聖霊様における喜び、救い、命、つまりキリスト自身を着ることなのです



49

もうしばらくしたらこの世はもはや私を見なくなります。しかしあなたたちは私を見ます。なぜなら、私は活きており[3]、あなたたちも活きることになるからで[4]
ヨハネによる福音書1419節より)

私たちは「キリストは死者たちの中から復活された」という御言葉に十分注意を払い、このこと以外は見ず聴かず考えず知らずにいるために、それぞれの文字を教会の塔かさらには天や地ほどもある大きさで備忘録に書き留めるべきで。もしもこの御言葉を信じるならば、私たちは安心して生きまた死ぬことができます。なぜならキリストは死に打ち勝ち死者たちから甦っただけではなく、私たちをもまたこの勝利に与る者としてくださったからで



410

兄弟たちよ、私があなたたちに伝えた福音、あなたたちが受け入れそのにあなたたちが立ってきた福音を、私はあなたたちに思い起こさせます。もしもあなたたちがいたずらに信じないで、私があなたたちに伝えた言葉を堅く守るならば、この福音によってあなたたちもまた救われるので
コリントの信徒への第の手紙1512節)

キリストを信じなさい。そうすればあなたは正しい道にいます。キリストにとどまりなさい。そうすればあなたは正しい方へみます。終わりまでたゆまずにそれを続けなさい。そうすればあなたは救われます私たちが生き続ける限り、キリストの復活と王国はこの地上独自の道をもっている」ことをパウロは私たちに教えようとしています。その道は、御言葉見えないキリストに頼りきる信仰によって見出され罪や死に打ち勝ち、それらに代わって義や命をキリストを通して得るので


[1] ei 直説法過去副時称は過去における非現実を表す。ここでは、しかし、直説法完了形(本時称)が非現実を表すものとして用いられている。この動詞の過去完了形の不在の故か。
[2] 動詞は両方共にアオリストである。
[3] 現在形。
[4] 未来形。