4月26日
彼らが食事をしているとき、イエス様はパンを取り、祝福し、裂き、そして弟子たちに与えて言われました、「あなたたちは取りなさい、食べなさい、これは私のからだです」。
(「マタイによる福音書」26章26節)
キリストの明瞭なこれらの御言葉に堅くとどまりましょう。差し出されたパンはキリストのからだであり、差し出されたぶどう酒はキリストの血です。疑わずに、単純な子供の信仰で、この恵みについてキリストに感謝し、喜び、それによって心を励ましましょう。キリストがそうおできになるのか論じ合ったり質問したりせずに、「なぜキリストがそうなさったのか」をおぼえましょう。
4月27日
(「ヨハネによる福音書」16章16節)
愛する弟子たちと同じように、私たちは「しばらくの間」とはどういう意味か体験してみるべきです。なぜなら、これは私たちが慰めや指導を受けるための模範や教えとして書かれているからです。私たちはこれを箴言として用い、経験や感情に生かさなければなりません。それは、「造り主は時には私のもとに来てくださり、時には私からお隠れになります」と、いつでも言うようになるためです。ときには御言葉は私を感動させることなく、脇を素通りしていき、その力を感じることさえありません。そういう時には、ちょうどそのとき私たちはこの「しばらくの間」を生きており、私たちは力と忍耐とによって自分を守るべきだ、と気づくのが大切です。
4月28日
父よ、あなたが私にお与えになった者たちが、私と共に私のいるところにいるように、私は望みます。
(「ヨハネによる福音書」17章24節より)
私たちは、この一文を「魂の枕や布団」だと思って、私たちの「時」が来たときに、その上で心喜び憩いながら、時間の世界から永遠の世界へと移っていくべきなのです。その時にこそ私たちは、罪やすべての不幸から解放されて、この世や悪魔の王国から永遠の平和と喜びへと移行するからです。
4月29日
私たちはこのような信頼を、キリストを通して、神様に対して抱いています。まるで自分から生み出したかのように、私たちが自分で何かを考える能力があるというのではなく、私たちにある能力は、神様から来ているのです。神様はまた、私たちを新しい契約に仕えることができる者、文字に仕える者ではなく御霊に仕える者、にしてくださいました。なぜなら、文字は殺し、御霊は活かすからです。
(「コリントの信徒への第二の手紙」3章4~6節)
文字の働きによっては、誰も神様の怒りに耐えられません。聖霊様の働きによってなら、神様の恵みのゆえに、誰も滅びることはありえません。聖霊様は私たちを活ける者にしてくださいます。聖なる唯一の福音、健康的で、救いをもたらすメッセージ、愛らしく慰めに満ちた御言葉こそが、悲しみに沈んだ心を慰め、元気付けてくれるのです。
4月30日
肉に従っている者たちは肉のことを思い、御霊に従っている者は御霊のことを思います。肉の思いは死ですが、御霊の思いは命と平和です。
(「ローマの信徒への手紙」8章5~6節)
「肉」とは、たんなる不道徳ではありません。キリストやパウロが「肉」と呼んでいるのは、すべて肉から生まれたもの、肉体も魂も理解力も感覚器官も含めた人間全体のことです。というのは、すべて人間のうちにあるものは肉に従っているからです。そういうわけなので、恵みを捨て去って高級で霊的なことを説き教える者のことを「肉的な者」と名づけなさい。