2011年1月21日金曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」4月26日~30日

    
426

彼らが食事をしているとき、イエス様はパンを取り祝福し裂き、そして弟子たちに与えて言われまし「あなたたちは取りなさい、食べなさい、これは私のからだで
マタイによる福音書2626節)

キリストの明瞭なこれらの御言葉に堅くとどまりましょう。差し出されたパンはキリストのからだであり、差し出されたぶどう酒はキリストの血。疑わず、単純な子供の信仰で、この恵みについてキリストに感謝喜び、それによって心を励ましましょう。キリストがそうおできになるのか論じ合ったり質問したりせずに、「なぜキリストがそうなさったのかをおぼえましょう。



427

しばらくの間、あなたたちはもう私を見なくなります[1]、しばらくの間、あなたたちはまた私を見るようになります[2]
ヨハネによる福音書1616節)

愛する弟子たちと同じように、私たちは「しばらくの間」とはどういう意味か体験してみるべきで。なぜなら、これは私たちが慰めや指導を受けるための模範や教えとして書かれているからで。私たちはこれを箴言として用い、経験や感情に生かさなければなりません。それは、「造り主は時には私のもとに来てくださり、時には私からお隠れになりますと、いつでも言うようになるためです。ときには御言葉は私を感動させることなく、脇を素通りしていき、その力を感じることさえありません。そういうには、ちょうどそのとき私たちはこの「しばらくの間」を生きており、私たちは力と忍耐とによって自分を守るべきだ、と気づくのが大切



428

父よ、あなたが私にお与えになった者たちが、私と共に私のいるところにいるように、私は望みます。
ヨハネによる福音書1724節より)

私たちは、この一文魂の枕や布団」だと思って、私たちのが来たときに、その上で心喜び憩いながら時間の世界から永遠の世界へと移っていくべきなのす。その時にこそ私たちは、罪やすべての不幸から解放されて、この世や悪魔の王国から永遠の平和と喜びへと移行するからで



429

私たちはこのような信頼をキリストを通して神様に対して抱いています。まるで自分から生み出したかのように、私たちが自分で何かを考える能力があるというのではなく、私たちにある能力は、神様から来ているのです。神様はまた私たちを新しい契約に仕えることができる者、文字に仕える者ではなく霊に仕える者、にしてくださいました。なぜなら、文字は殺し、霊は活かすからです。
コリントの信徒への第の手紙346節)

文字の働きによっては誰も神様の怒りに耐えられません。聖霊様の働きによってなら、神様の恵みのゆえに、誰も滅びることはありえません。聖霊様は私たちを活ける者にしてくださいます。聖なる唯一の福音、健康で、救いをもたらすメッセージ、愛らしく慰めに満ちた御言葉こそが、悲しみに沈んだ心を慰め元気付けてくれるので



430

肉に従っている者たちは肉のことを思い、御霊に従っている者は御霊のことを思います。肉の思いは死でが、御霊の思いは命と平和で
ローマの信徒への手紙856節)

「肉」は、たんなる不道徳ではありません。キリストやパウロがと呼んでいるのは、すべて肉から生まれたもの、肉体も魂も理解力も感覚器官も含めた人間全体のことでというのは、すべて人間のうちにあるものは肉に従っているからで。そういうわけなので、恵み捨て去って高級で霊的なことを説き教える者のこと肉的な者名づけなさい


[1] 現在形。
[2] 未来形。