4月1日
(「コリントの信徒への第一の手紙」11章26節)
聖餐式に頻繁に通う習慣を身に着けなさい。それもとりわけ、あなたたちが聖餐式にふさわしく自己を整えたとき、すなわち、心のうちで罪を悲しんでいるときこそ。それは、あなたたちが私たちの救い主イエス・キリストを忘れずに、主の犠牲と死とに思いを向けるためです。主は私たちからこのこと以外を期待してはおられません。「自分が下手であるとか、弱いとか、不忠実である」と感じるときに、あなたは主以外のどこから力をさがすつもりなのですか。汚れのない強い人間になるのを待ち続けるのは愚かなことです。そのような存在には決してなれません。もしも、自分がそのような者だと思い込んでいるなら、聖餐式はあなたにとって何の益もありません。
4月2日
(「コリントの信徒への第一の手紙」11章29節)
悪魔はあなたをこう言って試みることでしょう、「それでは、もしもあなたが聖餐をふさわしくない状態で受けて恵みを失ったら、どうする」。自分が聖餐を受けるにふさわしい状態にあるかどうか自問して悩まないようにしなさい。「あなたは信じている」ということに関心を集中しなさい。そうすれば、あなたは聖餐を受けるのにふさわしい者であり、またそうあり続けます。
4月3日
もしも山羊や雄牛の血や牝牛の灰が、汚れた人たちの上に撒きかけられて聖別し、肉をきよめる[4]のだとすれば、永遠の御霊を通して御自分を傷のない者として神様に捧げられたキリストの血はなおさら、(私たちが)死んでいるわざを離れて活きておられる神様に仕えるために、私たちの良心をきよめてくださるでしょう[5]。
(「ヘブライの信徒への手紙」9章13~14節)
「キリストの血は私たちを、罪からきよめ、聖なる者にする」と信じることによって、私たちがキリストの血を敬わないならば、それはキリストの御名をひどく汚すことになるでしょう。
4月4日
あなたは私のために銀で香水萱を買いもせず、あなたの犠牲の脂肪は私を満足させませんでした。かえってあなたはその罪によって私に負担をかけ、あなたの悪い行いによって私を疲れさせました。まさに私こそが自分自身のためにあなたの咎を拭い去るのです[6]。あなたの罪を私は思い出さないことでしょう[7]。私に思い出させなさい、共に裁きの座で決着をつけましょう[8]。あなたは、自分の正しさを示すために弁明しなさい。(「イザヤ書」43章24~26節)
福音の御言葉を「自分のもの」としなさい、そう、「あなた自身のもの」としなさい!福音にしがみ付いて、福音が約束していることを少しも疑わずに信じなさい。「あなたが聖徒と等しい者である」ということは、尊大な態度ではなく、必要不可欠な謙遜と絶望なのです。そしてこの絶望は、神様の恵みに対してではなく、自分自身に対しての絶望なのです。
4月5日
私たちの大祭司は私たちの弱さを思いやる心がないようなお方ではありません。この方は、罪なくして、あらゆることについて(私たちと)同じように試みにあわれたのです。そういうわけですから、私たちは勇気をもって恵みの御座へと近づいて行こうではありませんか。それは、私たちが憐れみを受けるため、また、時宜に応じて助けてくれる恵みを見出すためです。
(「ヘブライの信徒への手紙」4章15~16節)
人は時々疲れるものです。しかし、キリストはいつも(私たちと)共におられ、助けを差し伸べ、こう言われます、「起きなさい、子よ、起きなさい!大丈夫だ、また続けなさい。すべてを乗り越えていくしかないのだよ。失敗はつきものだ、ただ、倒れ伏したままにならないように気をつけなさい」。