4月11日
イエス様は彼女に言われました、「私にさわってはいけません。私はまだ父の御許に上っていないのだから。私の兄弟たちのところへ行って、彼らに「私は、私の父、あなたたちの父、私の神、あなたたちの神、であるお方の御許へ上っていく」と言いなさい」。
(「ヨハネによる福音書」20章17節)
キリストは私の兄弟です。キリストは「私が彼の兄弟姉妹であり、私がそのことを心の底から信じること」を望んでおられます。私はそれにふさわしい者ではありませんが、私にはそれが必要なのです。たとえ私がそれを必要としていないとしても、神様は「私がまことの神として敬う」のが当然であるようなお方です。もしも私がそれを信じないなら、私は最悪の罪を犯し、神様をひどく侮辱することになります。
4月12日
そのときイエス様は彼らに言われました、「恐れてはいけない。あなたたちは行って、私の兄弟たちにガリラヤヘ行くように言いなさい。そこで彼らは私を見るようになるでしょう」。
(「マタイによる福音書」28章10節)
これらキリストの御言葉は本当に素晴らしく愛されるべきものなので、信じたいと願う者は皆、全生涯を通じ、この世の終わりまで、これらの御言葉から信じるべきことがらを溢れるほどに見つけます。それは、この箇所において満ち溢れるほどに信じるべきものをもっている使徒たちの場合と変わりません。
4月13日
聖とする方も聖とされる者たちも、同じひとりの父から出ています。それゆえ、聖となさる方は、彼らを兄弟と呼ぶを恥じることなくこう言われます、「私はあなたの名を兄弟たちに告げ知らせ、教会であなたを賛美するでしょう」。
(「ヘブライの信徒への手紙」2章11~12節)
この箇所で特に注意を払うべきなのは「兄弟」という言葉です。ここで神様が保証されている通り、もしもキリストが私の兄弟ならば、私はキリストと共に、財産、遺産、キリスト御自身のすべてをもっていることになります。
4月14日
私はあなたの御名を私の兄弟たちに告げ、会衆の中であなたを賛美したいのです。(・・・)私は主を畏れる者たちの前で私の誓いを果たします。貧しい者は食べて満ち足りなさい。主を求める者は主を賛美しなさい。どうかあなたたちの心が永遠に活きるように。
(「詩篇」22篇23、26~27節)
私たちは、この「主と兄弟である」という関係を修復できなくなるほどに、深く罪に沈みこんだり、悪い罪過を犯してしまうことはありえません。なぜなら、この兄弟性は永遠で終わりがなく、むなしくなることもないからです。
4月15日
私は、消えた者を探し、迷った者を連れ戻し、傷ついた者を包み、弱った者を強めます。しかし私は、肥えた者と強い者とを滅ぼします。私は公平をもって彼らを牧します。
(「エゼキエル書」34章16節)
ここからわかるように、キリストの王国は、疲れ果てた者、病気の者、傷ついた者の只中でキリストが働かれ、彼らの世話をし、彼らを助けてくださっている場所です。これは慰めに満ちたメッセージです。それなのに、私たちは自分の危機と悲惨とに気がつきません。主が私にこのように憐れみ深くあられるのを見るとき、主は私の心をすっかりとらえ、私は主の御許へと馳せます。そして、そこから心にさらなる深い喜びが生じるのです。