2026年10月9日金曜日

「力なき者に力を」「使徒言行録」2章4節「御霊に満たされること」

「御霊に満たされること」

すると、一同は聖霊様に満たされ、

御霊が彼らに語らせるままに様々な他国の言葉で語り出しました。

(「使徒言行録」2章4節)

 

今日でもペンテコステ(聖霊降臨祭)は、 

エルサレムの最初のペンテコステの時と同じように偉大な出来事です。

この不思議な出来事の核心部分は、

炎の舌でも、異国の言葉で話し始めたことでさえなく、

むしろ弟子たちが皆、御霊によって満たされたことにありました。

イエス様は約束通りに力と命の御霊を送ってくださったのです。

 

聖霊様は今でも福音の御言葉の中や洗礼と聖餐の聖礼典の中に来てくださいます。

 

御霊が来ると、奇跡が起きます。

罪の中に死んでいた者が目覚めて、キリストの中で活きるようになります。

偽りは消え去り、代わりに真理がやって来ます。

奴隷同然の状態から解放されて自由の身になります。

平安のなかった者が神様の平和を享受するようになります。

罪の中で裸同然になっていた者はキリストの義を自らに纏います。

口のきけなかった者がイエス様について語り始めます。

怖くなって隠れ潜んでいた者には人前に出る勇気が与えられます。

 

キリスト信仰者たちは御霊にあって燃えていなさい、

と聖書は奨励しています。

御霊の燃える炭が御言葉と聖礼典を通して

私たちにいつも触れているようにすることで、

私たちは燃えつづけることができます。

 

御霊は私たちが無為に過ごしたり

イエス様について(周りの人に)知らせないよう

口を閉じさせたりはなさいません。

キリスト信仰者は御霊の働きかけによって、

救われる人々の群れが増大していくような生き方をするのです。

 

(祈り)主よ、どうか私の心の中にいらして、

私の歩みがあなたの栄光となるようにご指導ください。

主に感謝する生き方を私が願い求めるようになさってください。

また、祈りの思いを与えて感謝の言葉へと導いてください。

アーメン。

(関連聖句)「使徒言行録」2章1〜13節

2026年9月25日金曜日

「力なき者に力を」「フィリピの信徒への手紙」4章4節「永続する喜び」

「永続する喜び」


あなたがたは主にあっていつも喜びなさい。

繰り返して言いますが、喜びなさい。

(「フィリピの信徒への手紙」4章4節)

 

この箇所はキリスト信仰者の永続的な喜びについて語っています。

どうしたらそのようなことが可能なのでしょうか。

 

主の使徒の言っていることはおおげさなものではありません。

私たちが罪深い存在であり

キリスト信仰者には多くの様々な悲嘆があることを

使徒が忘れているわけではありません。


「いつも」と彼は書いています。

念を入れるように彼はそれを繰り返しています。

荒れ狂う波の表面下に深い永続する喜びがあるということです。

 

神様の子どもたちがいつもこのように喜んでいられるのは、

喜びをもたらす対象がこの世のものではないからです。


お金でも持ち物でもなく、

成功でも福祉でもなく、

感謝されることや栄光を求めることでもありません。


キリスト信仰者の喜びは主イエス様の中にあるのです。


それは、

罪の赦し、

神様に認められ受け入れていただける義、

神様の平和、

天の父なる神様に世話していただけること

についての喜びです。


それは、

イエス様を通して私たちキリスト信仰者が

救いの喜びにみちた死を迎えて天の御国へ入れていただける、

という内的な喜びなのです。

 

私たちを抱き上げ、運び、救ってくださる神様が私たちにおられるのです。

神様は私たちが「 夜の間に賛美を歌うようになさいます」

(「ヨブ記」35章10節より)。

 

(祈り)

喜びの御霊よ、

あなたの救いの喜びを私たちに再びお与えください。

この喜びがイエス様を通して、

恐れ、嘆き、鬱、失望に打ち勝てるようになさってください。

天のシオンへの旅を続けている者たちのもとから嘆きと溜息が逃げ去ること、

そして、彼らの上に永遠の喜びが留まることを、

どうか私たちに思い起こさせてください。

アーメン。

(関連聖句)「イザヤ書」12章

2026年9月7日月曜日

「力なき者に力を」「フィリピの信徒への手紙」3章20〜21節「低みから栄光へと」

「低みから栄光へと」

 

私たちの国籍は天国にあります。

そこから(来られる)救い主イエス・キリストを

私たちは待ち望んでいます。

この方は万物を御自身に従わせうる力の働きによって、

低みにある私たちの身体を

御自身の栄光の身体と似たかたちに変えてくださるのです。

(「フィリピの信徒への手紙」3章20〜21節)

 

キリストがこの世に再臨なさるときに起きる変化は

どれほど大きいものでしょうか!

この弱々しく衰え腐敗した私たちの身体が

キリストの栄光の身体と似たかたちに変えられる、と言うのですから。

 

「この朽ちるものが朽ちないものを着、

この死ぬものが死なないものを着ることになります。」

(「コリントの信徒への第一の手紙」15章54節より)

 

弱さは力へ、衰えは完全さへ、嘆きは賛美へとかわります。

罪の支配はもはや消え失せ、悲嘆や死はもうありません。

 

このように主の使徒は言い切ることができました。

救い主御自身がそう約束してくださったからです。

 

天地を造り、万物を保ち、人を地の塵から造られたこの方は、

(イエス様を救い主として信じており洗礼を受けている)聖徒たちが

死んで土や塵に変わった身体を召還して、

御自身の栄光の身体に似たものに変えることが本当にできるのです。

神様に不可能なことは何もないからです。

使徒信条にあるように、

私は身体のよみがえりと永遠の命を信じます。

 

(祈り)主イエス様、

あなたが十字架の死によって私の罪も帳消しになさったことを

私にはっきりお示しになり、

私を活ける希望を持つ者として再生してくださったことを

あなたに感謝いたします。

疑いを追い払い、

あなたの約束に堅く信頼できるように、

どうか私を助けてください。

あなたの約束はすべて真(まこと)です。

アーメン。

(関連聖句)「フィリピの信徒への手紙」3章12〜21節

2026年8月27日木曜日

「力なき者に力を」「詩篇」103篇12節「限りない恵み」

「限りない恵み」

ちょうど東が西から遠いように、

主は私たちの咎を私たちから遠ざけてくださいます。

(「詩篇」103篇12節 )

 

東の方へとひたすら歩み続けても終わりがありません。

同じように、ひたすら西の方に行ったとしても終着点はありません。

 

聖霊様は神様による罪の赦しを説明するためにこのイメージを用いておられます。

 

神様の御前では私たちの罪は重大で嫌悪すべきものです。

天の父なる神様は愛する御子にあたかもこう言っておられるかのようです、

「私は世の罪を見たくない。

それらを片付けて私の目に触れないようにしなさい」。

 

イエス様は私たちの罪を御自身の身体で十字架へと運んでくださいました。

そして、それらの罪の受けるべき罰を

私たちの身代わりに引き受けて死んでくださいました。

その尊い血によってすべての罪を深淵へと溺れさせ、

もはや私たちを責め立てるために上ってこないようにしてくださったのです。

 

今も残っている唯一の罪は不信仰です。

不信仰はあらゆる罪の源です。

なぜなら、不信仰は罪の赦しを受け入れるのを拒み、

イエス様のあがないの血を踏みにじるものだからです。

しかし、この血の中で私たちは聖別されているのです。

 

罪の赦しを信じることは私たちを無為にはしません。

自分が重荷から解放された私たちは

他の人たちも彼らの重荷から解放されるように助けるようになるからです。

このように罪の赦しの力によって新しい弟子たちが生まれてきます。

そして、相手が誰であろうとも

隣り人を愛することの大切さを学ぶことになります。

神様は尊い代価を払って私たちの罪を取り除いてくださいました。

ですから、私たちはもはや故意に罪を行いたいとは思わないのです。

むしろ、日々の生活の中で罪を避けたり罪と戦ったりすることが

私たちにとって大切な課題になります。

 

(祈り)

主イエス様、あなたは私を罪から解放してくださいました。

どうか私があなたにふさわしく熱心に仕えることができるように

なさってください。アーメン。

(関連聖句)「イザヤ書」55章

2026年8月24日月曜日

「力なき者に力を」「詩篇」23篇4節より「暗い谷」

「暗い谷」

私はたとえ死の陰の谷を歩むとも、

わざわいを恐れません。

あなたが私と共におられるからです。

(「詩篇」23篇4節より)

 

御言葉も教えているように、私たちは皆いつか死ななければなりません。

お年寄りに残された人生の時間は(若い頃よりも)短くなっています。

「主よ、私の終りと私の(残された)日の長さがどれほどかを

私に知らせてください。

私は自分がいかにはかない存在であるかを知りたいのです」

(「詩篇」39篇5節)

と私たちは祈ります。

 

人々の死に対する態度は実に様々です。

死を忘れるよう努める人もいれば、死をのろう人もいます。

かと思えば、死を歓迎する人もいます。

死に対して威圧的な態度を取る人もいれば、

死という定めの前にうち崩れる人もいます。

 

キリスト信仰者も自然と死を遠ざけようとするものです。

しかし、キリスト信仰者である私たちはイエス様への信仰にあって

「私はたとえ死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。

あなたが私と共におられるからです」

と言い切ることができます。

さらに、主の使徒と共に

「死よ、勝利はどこにあるのか。死よ、棘はどこにあるのか」

(「コリントの信徒への第一の手紙」15章55節)

と言うことさえできるのです。

 

イエス様の十字架と空の墓を通して、私たちは死の本当の姿を見ます。

死は永遠の光への扉なのです。

死を通して私たちは罪の桎梏から解放され、

もはや罪が私たちに染み付くことはなくなります。

私たちはずっと主と共にいることができるようになるのです。

私たちの身体もイエス様の栄光を受けた身体と似たものとされて復活するのです。

 

(祈り)

救いの朝がやって来ます。

死の国は威力を失います。

こうして命は死に勝ち、心臓は再び脈打ちはじめます。

アーメン。

(関連聖句)「コリントの信徒への第一の手紙」15章41〜57節

2026年8月18日火曜日

「力なき者に力を」「ローマの信徒への手紙」12章9節より「自らを律しなさい」

「自らを律しなさい」 

悪を憎んで退け、善に親しみ結びつきなさい。

(「ローマの信徒への手紙」12章9節より)

 

「放縦や泥酔や世の煩いのせいであなたがたの心が鈍らないように、

よく我が身に気をつけなさい」(「ルカによる福音書」21章34節より)。


救い主は私たちに自分自身を律するよう勧告しておられます。

 

お腹がすいてご飯を食べたり、喉が渇いて水分を補給したり、

休憩したり、よい趣味を持ったりするのは自然な生き方です。

しかし、すべてにおいて私たちは、自分の健康や評判や全人生を

台無しにしないように気をつけなければなりません。


自制はとても大切です。

聖書が次のように教えている通りです、


「そして、あなたのすることはすべて、

言葉によっても行いによっても、

一切を主イエスの御名によってなし、

イエス様を通して父なる神様に感謝しなさい」

(「コロサイの信徒への手紙」3章17節)。

 

本当に私たちは自己を律する必要があります。

怠惰や浪費は罪です。

貪欲や金持ちになる欲望も罪です。

趣味や遊びに時間を使いすぎるのもよくありません。

かといって、

趣味や遊び自体を悪いものと決めつけるのも正しいとは言えません。

身だしなみに気をつけるのはよいことですが、

流行の虜になるのは愚かです。

キリスト信仰者として自律している人は

すべてを一緒くたにして容認しはしませんし、

それらに迎合することもありません。

 

「あなたがたは地上のものではなく上にあるものに思いを向けなさい」

(「コロサイの信徒への手紙」3章2節)。


あがなわれた者として私たちは

すべてにおいて救い主に喜ばれたいと望みます。


私たちは人間の作った規則に対して

何も考えないまま従う奴隷ではありませんが、

一方では、

キリスト信仰者としての自由を不当に乱用する者でもありません。

 

(祈り)主イエス様、

私たちが怒るときに、話すときに、遊ぶときに、

食べたり飲んだりするときに、

悲しいときや喜んでいるときに、

自分を律することができるように助けてください。

私たちが己に克ち、いつもあなたに喜ばれるように強めてください。

アーメン。

(関連聖句)「コリントの信徒への第一の手紙」10章27〜33節

2026年8月7日金曜日

「力なき者に力を」「エゼキエル書」33章11節より「神様の思い」

「神様の思い」

私をないがしろにする不義の人が死ぬのを私は喜びません。

むしろ、私をないがしろにする不義の人が

その道を離れて生きるようになるのを私は喜びます。

(「エゼキエル書」33章11節より)

 

聖なる神様は罪を憎まれます。

ひねくれた人間はこのことから

神様について、

人が困っていても知らん顔をしているような

憐れみをもたない厳しい存在である

という結論を下します。

 

しかし、神様は御言葉を通して

「私をないがしろにする不義の人が死ぬのを私は喜びません」

と言われます。

罪を罰する神様は、同時に愛と恵みの神様でもあられるからです。

 

神様はその独り子を世に遣わして罪人たちのすべての罪を負わせました。

イエス様の受苦と死によって全世界の罪はすでに罰を受けており、

人は皆、律法と罪の呪いから御子の血と引き換えにあがなわれています。

罪人が悔い改めて神様からの和解の申し出を受け入れるようにと

神様は今も望んでおられます。

罪人が悔い改めることを神様は喜んでくださいます。

天国にいる御使いたちも共に歓喜します。

 

罪を行う者は自分自身や隣り人を傷つけるだけでは済みません。

神様の心をも痛めるのです。

なぜなら、全能の主は一人たりとも滅びることを望んではおられないからです。

主は全世界に向けて

「地よ、地よ、地よ、主の御言葉を聴きなさい」

と叫んでおられます(「エレミヤ書」22章29節)。


「地の果てのすべての人よ、私の方に向き直りなさい、そうすれば救われます」

(「イザヤ書」45章22節より)。

これが、罪人一人一人に対して神様が抱いておられる思いなのです。

 

(祈り)信仰が弱まり、心が疑いに囚われた時、

あなたの恵みを私の心に輝かせ、不信仰に勝てるようにしてください。

イエス様、あなたの受苦とそれにより開かれた天の御国とを

どうか私にはっきりとお示しください。

アーメン。

(関連聖句)「ヨハネの黙示録」21章9〜27節

2026年8月3日月曜日

「力なき者に力を」「ゼカリヤ書」14章7節より「明るくなっていく夕べ」

「明るくなっていく夕べ」

夕暮れ時になっても、光があります。

(「ゼカリヤ書」14章7節より)

 

日が暮れるはずの時刻なのにまだ明るいのは不思議な気がします。

 

イエス様がこの世にお生まれになった時、

人々は夕べの暗闇の中を歩んでいました。

そのような彼らの上に大いなる光が照り輝き渡ったのです。


「私は世の光です。

私に従って来る者は闇の中を歩くことがなく、

命の光をもつことになります」

(「ヨハネによる福音書」8章12節より)。

 

キリスト教会を照らす福音の光を再び輝かせるために

神様がマルティン・ルターを御自分の器として選ばれた時にも、

ひたすら暗くなっていく夕暮れが辺りを覆っていました。

永遠の御言葉は今も私たちの只中にあります。

私たちの周りに

キリスト信仰を失ったり拒絶したり

不信仰に留まったりする人々が大勢いる現代でも

それは変わりません。

 

福音は今日も宣べ伝えられています。

罪人は今日も自分の重荷と共にイエス様の御許に行くことが許されています。

重荷を下ろしていただいた私たちの思いは

今日も神様の平和と喜びに満たされます。

イエス様が十字架で私たちの身代わりに死んでくださったおかげで、

罪人である私たちは恵みにより罪の赦しと命と救いをいただけるのです。

 

人生の黄昏にさしかかっても、辺りは明るいままです。

私たちが死の陰の中にいても、イエス様は光であり続けます。

イエス様は御業を途中で取り消すようなことはなさいません。

私たちが(死という)人生の最後の戦いの最中にある時にも、

イエス様は私たちを決してお忘れにはなりません。

 

イエス様は私たちを天の御国の故郷へと連れて行ってくださいます。

天の御国には夜がありません。

そこでは小羊が永遠に太陽であり、光そのものだからです。

 

(祈り)

主よ、私の道が死の谷へと下っていく時に、

あなたの十字架が私を照らして、

光の道から陰りが消えるようになさってください。

私たちが生きる時も死ぬ時も、どうか私のもとにいてください。

アーメン。

(関連聖句)「詩篇」27篇

2026年7月3日金曜日

「力なき者に力を」「ヘブライの信徒への手紙」10章36節「約束は成就します」

「約束は成就します」 

神の御旨を行って約束のものを受けるために

あなたがたに必要なのは忍耐です。

(「ヘブライの信徒への手紙」10章36節)

 

これから何が待ち受けているか私たちにはわからない時であっても、

イエス様への信仰を通して永遠の救いを恵みの賜物としていただける

という神様の約束はいつも有効です。

 

キリスト信仰者の人生には計画が与えられています。

そしてそれは全能の神様の御手の中にあります。

神様は手をつないで私たちを一歩一歩導いてくださいます。

私たちには未来が見えません。

しかし、主は未来のこともよくご存知です。

誰も私たちを主の御手から奪い去ることはできません。

このことを知っておくのは私たちにとって大切です。

 

今日、私たちには罪の赦しがあります。

今日、私たちは洗礼という恵みの契約の中で生きることができます。

私たちは天の御国の富を受け継ぐ約束をいただいています。

天の御国に到着するまでこの世で旅を続けている間、 

福音が純粋に宣べ伝えられ聖礼典が正しく施行される神様の教会の中で

私たちは生きていくことができます。

 

たとえこの世の人生においてさまざまな苦しみにあったとしても、

私たちは自分の力に頼るのをやめて、

日々キリストを自分の上にまとうことができます。

そして、よりよく神様の御言葉を研究し、

祈り、待ち望み、勝利することを学びます。

 

約束の地へと向けて信仰を持って歩むように、

私たちは他の人たちにも大胆に勧めることができます。

約束されたものをいただくためには忍耐が必要なのです。

神様の約束は成就します。

 

(祈り)主よ、あなたの約束を忠実に守れるように、

また、あなたが私たちを目的地まで運びたいと思われていると信頼できるように、

どうか私たちを助けてください。アーメン。

(関連聖句)「ヘブライの信徒への手紙」10章35〜39節

2026年6月29日月曜日

「力なき者に力を」「出エジプト記」15章24節「苦い水」

「苦い水」 

民はモーセに対して不服そうに

「私たちは何を飲むのですか」と言いました。

(「出エジプト記」15章24節)

 

喉が渇いて苦しんでいる人に差し出された水が

もしも飲むに耐えないものだったとしたら、

不幸としか言いようがありません。

そして、荒野でイスラエルの民の上に起こったのはこのようなことでした。

民はやっと泉のほとりに辿り着いたものの、

そこの水は苦くて飲めたものではなかったのです。

 

彼らはモーセに不平を言いました。

その時、モーセは主に叫びました。

すると「主が彼に一本の木を示されたので、

それを水に投げ入れると水は甘くなりました」(25節)。

 

私たちも渇きを覚えているときに

口元に「苦い水」をもらうことがあります。

信頼を裏切られたり、

計画がだめになったり、

健康を害したりする場合もあるでしょう。

自分があたかも包囲されているかのように感じられるのです。

そのような時、私たちは主に叫ぼうともしないで

不平ばかりこぼすのではないでしょうか。

 

今もまた主は私たちに

苦い水を飲める水に変えてくれる木を指し示しておられます。

その木とはゴルゴタの十字架です。

この十字架の木でイエス様が私たちの罪の罰を引き受けて苦しまれたことを

御言葉は私たちに教えています。

私たちは神様と和解させていただき、罪を赦していただきました。


神様は私たちに不要な試練を一つたりともお与えにはなりません。

この試練という十字架は私たちの人生の苦い水を飲めるものに変えてくれます。

そして、私たちは苦しみのさなかにあっても神様を賛美することを学ぶのです。

 

(祈り)

私に与えられた分が大きいものであっても小さいものであっても、

私は自分の人生と道をあなたにゆだねます。

お父様、どうか私たちひとりひとりを導いてください。

国と力と栄えとはあなたのものです。アーメン。

(関連聖句)「出エジプト記」15章22〜27節

2026年6月25日木曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」6章33節「まず一番大切なものを」

「まず一番大切なものを」

 

まず神様の御国と神様の義とを求めなさい。

(「マタイによる福音書」6章33節)

 

私たち人間には実に変なところがあります。

イエス様が「まず神様の御国を求めなさい」と言われるときに、

まず私たちはこの世的なものを探し、儚いものに喜びを求めるのです。

 

神様に受け入れていただける義は、

キリストが私たちの救いのために成就した十字架の御業の中にしかありません。

 

キリストを通して私たちは神様との平和をいただいています。

この聖霊様の御国はイエス様のうちにあります。

イエス様は福音と聖礼典(洗礼と聖餐)のうちから見いだされます。

それゆえ、神様の御言葉を聴くのはなによりも大切なことなのです。

御言葉が純粋に宣べ伝えられる礼拝に私たちが参加することを妨げようとする

いかなる口実もあってはなりません。

私たちには御言葉なしで過ごす余裕など一日たりともないからです。

私たちの罪の赦しのためにイエス様がその身体と血の聖礼典を与えてくださる

新しい契約の食事(聖餐式)に参加しないことがどうしてありえましょうか。

また、洗礼を通して神様が私たちを御自分の子どもとして生んでくださった

という恵みの契約に日々立ち返っていくことも大切なことです。

 

神様の御言葉が用いられているとき、

主の御業が私たちにとっていっそう大切なものになります。

そして、私たちは神様の御国の拡大のために

自分の時間や才能や資力を喜んで活用するようになります。

このようにして、

一番大切なことがそれにふさわしく一番はじめにくることになるのです。

 

(祈り)あなたの愛をどうか私たちにも大きくしてください。

それによって、私たちが自分のために生きることを

やめることができるようになるためです。

神様、私たちのうちにも

自らを御国のために捧げる私欲のない心を形作ってください。

そして、私たちがいつもしっかりと目を覚まして

祈れるようになさってください。

アーメン。

(関連聖句)「マタイによる福音書」13章44〜46節