2024年3月18日月曜日

「力なき者に力を」「ガラテアの信徒への手紙」2章20節「私の身代わり」

「私の身代わり」

生きているのはもはや私ではありません。

キリストが私のうちに生きておられるのです。

しかし私がいま肉にあって生きているのは、

私を愛し私のために御自身を捧げられた神様の御子の信仰によって

生きているのです。

(「ガラテアの信徒への手紙」220節)

 

このように主の使徒は愛する救い主について美しく語っています。

御子は私を愛して、御自分を私のために捧げてくださいました。

このことを知っていたパウロはすべてを知っていたといえます。

 

私たちもこれら優しい言葉の中に、

時間の世界と永遠の世界で生きるために必要なすべてのことを見出します。


この世は私を憎んでいるでしょうか?

イエス様は私を愛してくださっています。


私の道は歩むのが難しくて暗いですか?

私には友だちがいないのでしょうか?

イエス様は私を愛してくださっています。


明日のことが不安ですか?

イエス様は私を愛してくださっています。

そしてこの愛は決して変わることがありません。

 

あなたの罪があなたをおびやかそうとして立ち現れても、

恐がらないでください。

イエス様は御自分をあなたのために捧げてくださったのです。

イエス様はあなたの罪をゴルゴタの十字架へと運んで、

深い海の底へと沈めてくださいました。

イエス様はあなたの罪の負債を支払ってくださいました。

イエス様はあなたが受けるべき罰を代わりに引き受けて苦しまれました。

イエス様はあなたのために御自分を差し出されたのです。

 

元気の出てくる言葉ですね!

 

毎日、毎瞬間、仕事の時も休んでいる時も、朝も夕も、

いつでも私たちの心の中に次のような言葉を響かせましょう。


「私の救い主は私を愛してくださっている。

イエス様は御自分を私のために捧げてくださった。

この信仰によって、私は荒野を越え、

私の救い主の愛の永遠の住いへと喜びつつ歩みを進める勇気を得る」と。

 

(祈り)

恵みの泉なる私のイエス様、

あなたは私のうちにおられます。

私はあなたのうちに生きています。

苦しみが私をあなたから引き離すことはありません。

私のすべてはあなたのものです。

アーメン。

(関連聖句)「イザヤ書」5319節 

2024年3月14日木曜日

「力なき者に力を」「ヨハネの第一の手紙」5章11節「永遠の命」

「永遠の命」

 その証とは、

神が永遠の命を私たちに賜わったことと、

その命が御子のうちにあるということです。

(「ヨハネの第一の手紙」511節)

 

神様は聖なる御言葉を通して私たちに語りかけてくださいます。

言葉にはできないほどの愛をもって、

神様は私たちがイエス・キリストにある永遠の命を信じるようにと

望んでおられるのです。

そしてこれが一番大切なことです。


もちろんこの神様の証がなくとも、

人はこの世で生きていくことはできます。

しかしこの証を欠いては、

天の御国に入ることはできません。

 

私たちは過去の世代の伝統や慣習がなくても

生きていくことができます。

しかし御子キリストについての神様の証がなくては、

私たちは来るべき楽園を失ってしまうのです。


使徒パウロは

「私の主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに

私はすべてのものを損失とみなしています。

キリストのゆえに私はすべてのものを損失しましたが、

それらのものをゴミ同然のものとみなしています」

とさえ言い切っています(「フィリピの信徒への手紙」38節より)。

 

永遠の命は、作り話や夢などといった、

来世への願いから人間が勝手に拵えたものではありません。


永遠の命とは、

イエス様がゴルゴタで成し遂げられた「真理」についての

神様御自身による証であり啓示なのです。

「真理」とは

神様の御子イエス様が罪なき義人として

私たち罪人たちの身代わりとなって十字架で死んでくださったということです。

 

自らの罪深さのゆえに死ぬという「死刑判決」を受けた全人類に対して

「永遠の命」という賜物がイエス様の御業のゆえに

信仰を通して受け取れるものとして約束されています。


これは人間の勝手な「発明」などではありません。

人の心に思い浮びもしなかったことを、

神様が御霊を通して啓示してくださったのです。


私たちも是非ペテロと共に

「主よ、私たちは(あなたを離れて)誰のもとに行けましょうか。

あなたが永遠の命の言をもっていらっしゃるというのに」

(「ヨハネによる福音書」668節)と信仰告白しましょう。

  

(祈り)イエス様、嵐に打たれないように

どうか私を御言葉の中に保ってください。

たとえ重苦しい夜が来たとしても

御言葉の中で私は守られるからです。

アーメン。

(関連聖句)「ヨハネの第一の手紙」5913

2024年3月7日木曜日

「力なき者に力を」「ガラテアの信徒への手紙」3章26節「私たちは神様の子どもです」

「私たちは神様の子どもです」

あなたがたは 皆、キリスト・イエスにある信仰によって

神様の子どもなのです。

(「ガラテアの信徒への手紙」326節)

 

罪が神様との関係を壊したため、

はじめの人間たち(アダムとエバ)は

神様の子どもとしての地位を失いました。

しかし、放蕩息子や娘である私たちに神様はキリストを通して

新たな「帰り道」を備えてくださったのです。

今やそのおかげで、キリスト信仰者たちについて

「あなたがたは 皆、

キリスト・イエスにある信仰によって神様の子どもなのです」

と言うことができるようになりました。

聖なる洗礼において、

私たちは水と御霊によって神様の子どもとして生まれ、

本当に神様の家族の一員になるのです。

 

聖なる洗礼において神様の家族の一員とされることは、

キリスト信仰者に与えられる大きな特権です。

本来罪深い者であり神様の敵であるはずの私たちは、

洗礼の恵みに基づいて「神様の子ども」とされるのです。

今でも、私たちが罪を告白する度に、

神様は私たちが神様の子どもであることを私たちに確証してくださいます。

聖霊様の印章と「賜物としての義」という最高級の衣服とが

私たちのためにすでに用意されているのです。

 

もしも私たちが「神様の子ども」なら、

神様は「私たちのお父さん」ということになります。

天国とその宝物とは「私たちのもの」になり、

恐怖心は消え、喜びの心に満たされます。

今、イエス様御自身が来られて次のように確言してくださいます。

 

「私があなたがたを選んだのです。

(中略)それは、私の名によって私の父に願うことは何でも、

父があなたがたに与えてくださるためです」

(「ヨハネによる福音書」1516節より)

 

(洗礼と信仰を通して)私たちは神様の子どもです。

それゆえ、神様の御言葉が私たちの導き手となって、

私たちは自分たちが神様の御心を実行していくことを心から望むのです。

 

(祈り)神様に、小羊に、感謝します!

私は神様の恵みの契約の中に入れられています。

神様は高価な代償を払って私を買い取り(贖い出し)、

滅びの淵から救い上げてくだったのです。

アーメン。

(関連聖句)「ガラテアの信徒への手紙」32229

2024年2月8日木曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」11章3節「疑いと警告標識」

「疑いと警告標識」

「来るべき方」はあなたなのですか。

それとも他の誰かを待つべきなのでしょうか。

(「マタイによる福音書」113節)

 

キリストを疑う心に悩まされるのはひどく恐ろしいことです。

私たちはすべてにおいて完全にキリストに依存している存在だからです。

この方は私たちの救い主であり助け主です。


しかし、もしもこれが本当ではなかったとしたら?

福音がたんなる作り話や神話だったとしたら?


キリスト信仰者であっても

時にはこのような疑念をもつことがあるのではないでしょうか。


衝撃的な体験、

担うのが苦しい人生の十字架、

読んでしまった不信仰な書物、

人の魅惑的な言葉などが、

あなたを疑いの沼に突き落とすことがあるかもしれません。

 

洗礼者ヨハネはキリストに

「「来るべき方」はあなたなのですか。

それとも他の誰かを待つべきなのでしょうか。」

という質問状を送りました。

おそらく彼は自分の弟子たちのことを考えてこの質問をしたのでしょう。

 

どのようにして彼らは信仰の確信を再び取り戻すことができたのでしょうか。


それは彼らがイエス様の御許に参ったからです。


質問者に対してイエス様は

実に御自分が旧約聖書で到来が預言されていたメシアであり

世界の救世主にほかならないという最も確実な証を示してくださいました。


人から信仰の疑いを取り除くことができるのはイエス様だけなのです。

 

疑いは警告標識です。


それは、疑いを抱く人に対して、

聖書の御言葉の中により深く入っていき

イエス様の十字架にもっと近づいていくようにと促します。


十字架上で死に、三日目に死者たちの中から復活なさったイエス様は

その刺し抜かれた御手を私たちに見せて

「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言っておられます。


その時に私たちは「私の主、私の神様!」と答えることができます

(「ヨハネによる福音書」202728節より)。

 

(祈り)暗闇に取り囲まれる時には、

どうか光から生まれた光そのものであるあなたが来られて

御自分の栄光を再び私たちにお示しくださいますように。

アーメン。

(関連聖句)「マタイによる福音書」11210

2024年1月30日火曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」10章31節「雀と私たち」

「雀と私たち」


あなたがたは多くの雀よりもはっきり優れた存在なのですから、

恐れなくてよいのです。 

(「マタイによる福音書」1031節)

 

雀はどこにでもいるありふれた鳥であり、

とくに貴重であるとは思われていないでしょう。

雀の儚い命をかわいそうに思う人もあまりいないのではないでしょうか。

ところが神様は雀のこともよく養ってくださっています。

御自身の善なる御意思のゆえに神様は雀も世話しておられるのです。

 

「私たちは雀よりもはっきり優れた存在である」

とイエス様は言っておられます。

私たちはこのことを神様の御言葉から知ることができます。

神様は私たちの罪を帳消しにするために捧げられる犠牲として

御自身の独り子、主イエス様を私たちに賜りました。

この賜物は雀や天使のためのものではありません。

 

罪の圧迫とやましい良心の呵責から私たちを解放するために、

神様は私たちに御子を賜ったのです。

キリストの尊い血によって、

私たちは癒され、

私たちの罪は帳消しにされ、

良心の呵責は取り去られました。

こうして私たちには神様との平和が用意されました。

 

憐れみ深い神様は私たちの人生に関心をもっておられます。

あなたは病気ですか。

苦しみに押しつぶされそうになっていますか。

神様は私たちのもとに来られ、

「あなたがたは多くの雀よりもはっきり優れた存在なのですから、

恐れなくてよいのです」と言ってくださいます。

私たちは安心して自分のことを神様にすっかりお委ねしてよいのです。

「永遠の御腕」(「申命記」3327節より)が

私たちを運んでくださるのですから。

 

神様は私たちを立ち上がらせ、運び、救ってくださいます。

神様は私たちを一人にはなさいません。

「あなたの道を主に委ねなさい。主に信頼しなさい。

主が成し遂げてくださるからです」(「詩篇」375節)。

  

(祈り)私たちの御父様、

あなたは私たちのことに御心を配られ、

私たちに毎日食べる物をくださいます。

私たちは子どものようにあなたに信頼します。

御父様、私たちはあなたの善なる御意思の中に守られることを願います。

アーメン。

(関連聖句)「詩篇」372340

 

2024年1月19日金曜日

「力なき者に力を」「フィリピの信徒への手紙」4章13節「安全」

「安全」

 私を強めてくださる方によって、私は何でも行うことができます。

(「フィリピの信徒への手紙」413節)

 

海はキリスト信仰者の人生を描写するのに適したたとえです。

海面では嵐が吹き荒れていても、海の深部では完全な平和が保たれています。

私たちを取り巻く世界は常に動揺しています。

このような世界で生きていく中でも心の中が平和と安全に保たれるのは

神様の大いなる祝福です。

 

これは主の使徒パウロが実際に体験したことでもあります。


幾多の反対を受け様々な労苦を重ねながらも彼は

「私は自分のいる状況の中で自足することを学びました」

(「フィリピの信徒への手紙」411節より)

と手紙に書いています。

 

色々な理由から意気消沈したり狼狽したりする時、

私たちは「海面」にいるようなものです。


神様が常に私たちを導いて、終わりまで面倒を見てくださることへの信頼が

足りていないのです。

 

パウロは心の平和を保つ秘訣について

「私を強めてくださる方によって、私は何でもすることができます」

と表しています。


自分自身と神様との間に平和がなければ、

誰も安心して穏やかに過ごすことはできません。


イエス様における罪の赦しについて確信をもつとき、

私たちはさほど重要ではない他のことがらについて

「神様は、神様を愛する者たち(中略)と共に働いて、

万事を益となるようにしてくださることを私たちは知っています」

(「ローマの信徒への手紙」828節より)

と心穏やかに結論することができます。


そしてそのような時には動揺の中にあっても平和が保たれているのです。

 

(祈り)神様、

あらゆる理解を超える平和、

キリスト・イエスにあって私たちの心と思いを守る平和にあずかれるように、

どうか私たちを教え導いてください。

アーメン。            

(関連聖句)「フィリピの信徒への手紙」4413

2024年1月12日金曜日

「力なき者に力を」「詩篇」128篇2節「仕事の祝福」

「仕事の祝福」 

あなたは自分の手で労苦した実を食します。

それがあなたの幸いであり、あなたにとって良いことなのです。

(「詩篇」1282節)

 

仕事は呪いなどではなく、祝福を含んでいます。

仕事とは、

人が生活するために必要な経済的収入を得るために

神様がお定めになった秩序なのです。


「働こうとしない者は、食べてもいけません」

(「テサロニケに信徒への第二の手紙」310節より)。


私たちは仕事を奴隷のようにうめきながらやるのではなく、

女王のように行うこともできるはずです。

すべては人がどのような態度で仕事に取り組むかにかかっています。

 

自分の職業について質問を受けたある靴屋は

「私はキリスト信仰者であり、

自分の生活をまかなうために靴を修繕しています」

と答えました。

 

仕事は神様からいただく使命であり、

神様の御心を実現するために神様にお仕えすることです。

熱心に働くことを通して、

キリスト信仰者はこの世で必要な収入を得て、

隣り人を助け、神様の御国を拡大していきます。

仕事は神様がお定めになったものです。

それゆえ、

自らにゆだねられた仕事を果たしていくときに

私たちは奴隷ではなく自由なのです。

そこには仕事の喜びがあり、神様の祝福も秘められています。

 

神様は私たちの人生を教え導き、

御自分の賜物を私たちに分けてくださいます。

仕事は神様の家の運営に参加することであり、

神様からいただいた使命を忠実に果たしていくことです。

神様は今まで実際に与えてくださいましたし、

これからもさらに与えてくださいます。

 

それに対して、

神様との関係を調停し救いを報酬として受け取ろうとする目的でなされる

すべての仕事は呪われています。

 

(祈り)私たちの神様なる主の憐れみに私たちがあずかれますように。

私たちの手の労苦が祝福されますように。アーメン。

(関連聖書)「エフェソの信徒への手紙」659