2019年5月31日金曜日

「力なき者に力を」「ペテロの第一の手紙」5章7節「神様は面倒をみてくださる」

「神様は面倒をみてくださる」

自分の苦悩をすべて神様に向かって投げ出しなさい。
なぜなら、神様はあなたがたの面倒をみてくださるからです。
(「ペテロの第一の手紙」57節)

ペテロはこの言葉を小アジアのキリスト信仰者たちに向けて書き送りました。
迫害のせいでさまざまな苦しみを受けていた彼らは、
この慰めと希望の御言葉を必要としていました。
彼らの多くは次のように考えていたことでしょう、
「もしも神様が私たちの面倒をみてくださるなら、
どうして私たちはこれほど大きな困難に巻き込まれてしまったのだろうか。
どうして私たちは家と財産を失うことになったのだろう。
どうして私たちは自分の愛する人々から引き離されてしまったのだろうか」。

私たちも彼らと同じような疑問を持ったことがあるのではないでしょうか。
「もしも神様が面倒をみてくださっているのなら、
なぜ苦しみが存在するのか」と。

神様は私たちのことをよく御存知です。
私たちが迷いやすく、この世の仕掛けた死の罠に引っかかりやすいことを
神様は知っておられます。
それゆえ、私たちは信仰をもって耐え忍び、
救い主と一層強く結びつく必要があります。
そうなるために、神様は
私たちが様々な苦しみに遭遇するのをあえて妨げないようになさるのです。
それらの苦難は私たちの最善となるべく計られて与えられているものです。

神様は私たちを愛しておられ、
私たちの面倒を見てくださいます。
それゆえ、ちょうど金が火によって精錬されるのと同じように、
神様は私たちを苦しみによってきよめてくださるのです。

もはや神様は私たちの罪を根拠に私たちを罰することはありません。
イエス様が私たちの身代わりに
一切の罰の責め苦を引き受けてくださったおかげで、
私たちの罪は赦されているからです。
しかし一方で、神様は以前通りに私たちを厳しく躾けて、
キリスト信仰者として成長させてくださるのです。
 
(祈り)イエス様、私はあなたに涙ながらにお頼みします。
私がむやみに不平を言ったり、主の道から逸れたりしないように、
試練の道を通して、主よ、どうか私をあなたの御許へとお連れください。
アーメン。
(関連聖句)「ペテロの第一の手紙」31017

2019年5月24日金曜日

「力なき者に力を」「詩篇」107篇1節「主に感謝しなさい」

「主に感謝しなさい」

主に感謝しなさい。
主は善き方であられ、主の恵みは永遠につづくからです。
(「詩篇」1071節)

感謝は「心」という庭園の中に咲く一番美しい花です。
感謝には希少価値があります。

感謝していると、
いつともなく贈り物付きの感謝がかえってきます。

自分が受けた善いことに感謝していると、
善いことをしてくれた人からの敬意と愛を勝ち取ることができます。

神様に感謝していると、
神様は祝福を私たちの上にあふれさせてくださいます。

コンスタンチノープルのビショップ(その地の教会の牧師たちのリーダー)
だったクリュソストモスは高齢になってから職を罷免され、
追放処分を受けました。
そして、貧困と悲惨の只中での生活を余儀なくされました。
にもかかわらず、彼の最後の言葉は
「すべてにおいて私は神様に感謝します」というものでした。

私たちは主に感謝します。
なぜなら、主は善きお方だからです。
私たちがもっているすべてのものは、
主が私たちに与えてくださったものです。
とりわけ御子を、また御子における罪の赦しと命と救いの幸せを、
主は私たちに賜りました。

主の恵みは永遠につづきます。
なぜなら、イエス様は
永遠に私たちの罪を取り除くために犠牲となられた神の小羊だからです。

この恵みは限りがなく、永続します。
この恵みは私たちに神様の善性を賜物としてもたらします。

イエス様を通していただけるこの恵みの賜物を受け取るときに、
私たちも絶えず感謝しつつ口と心で次のように言います、
「主に感謝しなさい。
主は善い方で、主の恵みは永遠につづくからです」。

(祈り)神様、唯一の善きお方であるあなたにいつも感謝できるように、
どうか私に感謝の心をお与えください。アーメン。
(関連聖句)「ヨハネの黙示録」7917

2019年5月20日月曜日

「力なき者に力を」「テモテへの第一の手紙」1章14節「神様の恵み」

「神様の恵み」

私たちの主の恵みがイエス・キリストにある信仰と愛を伴って
この上なく豊かになりました。
(「テモテへの第一の手紙」114節)

神様の恵みの大きさは誰一人理解できません。
「あなたの恵みは天に届くほど大きい」(「詩篇」5711節より)からです。

聖霊様の啓示により、
私たちは恵みが自分にどのような意味をもつか理解することができます。
私たちは神様の恵みの目的を見ます。
なぜなら、
恵みは他でもない私たちに対して与えられているからです。

私たちの中には罪の力が渦巻いています。
私たちは自分を聖書に出てくる人物に重ね合わせます。
たとえば、
金銭を人々から騙し取った取税人に、
罪の生活を送る女に、
また、十字架にかかった強盗に、
といったようにです。
私たちは罪深い人々の中におり、しかもその一員でさえあります。
しかし、神様はそのようにひどい罪深い人々を憐れんでくださいます。

パウロは「自分は罪人の中でも最悪に罪深い者である」と告白しました。
一方で彼は「神様の恵みがこの上なく豊かである」ともはっきり証しています。
「もしも私たちが自分の罪を告白するならば、
神様は真実で義しいお方なので、その罪を赦し、
すべての不義から私たちをきよめてくださいます」
(「ヨハネの第一の手紙」19節)。

「神様、罪人の私を憐れんでください」と私たちは祈ります。
私たちは義という賜物をいただきます。
なぜなら、
「この方の御子イエス様の血が私たちをすべての罪からきよめてくださる」
(「ヨハネの第一の手紙」17節)からです。
そして、神様の恵みは
私たちがキリスト信仰者にふさわしい義しい生き方をするように
私たちを訓育します。

(祈り)神様、罪深い者である私に対するあなたの大いなる恵みを感謝します!
あなたの恵みによって、イエス様にある信仰と恵みが
私の中で生き生きと働くようになるように、どうか助けてください。アーメン。
(関連聖句)「詩篇」103112

2019年5月10日金曜日

「力なき者に力を」「フィリピの信徒への手紙」4章11節より「与えられたもので満足する秘訣」

「与えられたもので満足する秘訣」

私は自分のいるどんな境遇の中でも
与えられたもので満足することを学びました。
(「フィリピの信徒への手紙」411節より)

「足ること」を知っている人は幸せです。
欲しいものを全部手に入れた人がそういう境地に至る、
というわけではまったくありません。
平安と満足感は心の状態を示しています。
 
使徒パウロは与えられたもので満足する術を身に着けました。
彼は「足ること」を知るために多くのものを手放しました。
たとえば、ファリサイ人としての権威、友人関係、以前の生活などです。
栄光の主イエス様と出会ったことは、
パウロの人生を完全に転換させることになりました。
怒りや迫害や侮蔑の対象となり、
しまいには殉教することになったにもかかわらず、
パウロは満ち足りた心持ちでキリストについて宣べ伝えました。
「イエス様は自分の救い主である」と信じて生活したすべての時期を通じて、
彼は「与えられたもので満足すること」の大切さを知っていました。

パウロは「自分は罪人の中でも最悪に罪深い者である」と証しました。
深い罪責感の中でパウロは
「キリストがすでに用意してくださった罪の赦し」に
完全な信頼を寄せていました。
また、キリストにおける罪の和解を
自分にもあてはまるものとして受け入れていました。
そうして彼は平安と永遠の命の希望と喜びとを得たのです。
イエス様において彼は「足ること」を知り、幸せでした。

これは私たちの場合にもあてはまります。
十字架の血によって平和をもたらしてくださったイエス様への信仰を通して、
私たちは平安を見出します。
イエス様は私たちの救いのために生きまた死んでくださいました。
イエス様を「自分の主」としていただいているとき、
私たちは人生のどのような境遇においても「真に足ること」を知り、
幸福なのです。

(祈り)主よ、あなたの中で満足し幸せに生きていけるように、
どうか私たちを教えてください。アーメン。
(関連聖句)「テモテへの第一の手紙」6612

2019年5月2日木曜日

「力なき者に力を」「イザヤ書」52章1節より「朝起きるときに」

「朝起きるときに」
 
シオンよ、さあ目を覚まして、あなたの力に身を包みなさい。
聖なる都エルサレムよ、礼服を着なさい。
(「イザヤ書」521節より)

多くの人にとって、
朝起きてその日の仕事に取り掛かるのはたいへんなことです。
それとはまったく違う角度から
「イザヤ書」はイスラエルの新たなる日が始まるのを見ています。
神様の恵みにより、
ついに主の民は囲繞する恐怖と滅亡の悪夢を振りはらい、
礼服を身にまといました。
シオンは神様の用意された新たな日へと目覚めることができました。

実に不思議な幻です。
この予言はキリストにおいてすべて成就されました。
主はその「聖なる腕」をすべての民の目の前に明示されました。
イエス様は十字架の木にあげられ、
すべての民を御許に引き寄せてくださいます。

「神様はキリストにおいて、世を御自分と和解させ、
その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、
私たちに和解の御言葉を委ねられました」
(「コリントの信徒への第二の手紙」519節)。

洗礼を通して私たちに与えられたキリストの義という衣を信仰において着る時に、
私たちは「新たに創造されたもの」となります。
イエス様への信仰を通して、
私たちは自分自身の罪と自分本位の義という汚い服を取り去っていただきます。

信仰の恵みを新たに受けて迎える朝は、
その日に神様に仕える聖なる仕事
(つまり、信仰に基づいてなされるすべての仕事)
を行う機会と永遠の命の希望とを私たちに与えてくれます。

(祈り)泉よ、あなたの側から、
私たちの旅を支える知恵と慰めと勇気とが今も流れてきます。
愛する主について語る福音を聴くことができるように、
どうか私たちに力をください。
苦しみに満ちたこの世で今も続けられているあなたのお働きの一環として
あなたの栄光を輝かせるために、
どうか私たちのことも用いてくださいますように。アーメン。

(関連聖句)「イザヤ書」5122節~5210