2017年4月26日水曜日

マルティン・ルター「活きるために」「イザヤ書」53章4~5節(その2)

本当に、
この方は私たちの病を負い、
私たちの痛みを担われたのです。(中略)
この方は私たちの罪過のために傷つけられ、
私たちの不義のために砕かれたのです。
罰はこの方の上にふりかかりました。
それは、私たちに平和をもたらすためでした。
この方の傷によって私たちは癒されたのです。
(「イザヤ書」5345節)(その2)

私たちは不幸にあうとき、
それらあらゆる不幸を通じて神様は
私たちのために光を点してくださったのだ、
と理解して受け入れるべきです。
この光を通して私たちは、
神様の善き本質と善き御業とが
数え切れないほど多くの事柄の中にもあったことを
見ることになるでしょう。
そして、今の不幸はいたって些細なもので、
せいぜい大火の中の一滴の水のようなものか、
あるいは大水の中の火の粉のようなものだ、
とみなす自分に気づくことでしょう。


神様が不幸を与えるのは、
神様をないがしろにしている人々がいるからです。
信仰者たちは、
この世においてはそのような人々の下で生きているので、
(彼らのために惹き起こされる)こうした不幸の大部分に
否応なしに巻き込まれてしまいます。

そしてまた、逆のケースもあります。
神様をないがしろにしている者たちは、
信仰者たちのために神様がこの世に賜っている善き事柄を
ちゃっかり利用しています。

しかし、来るべき永遠の命の世界では、
神様をないがしろにしたまま死んだ人々は、
義なる人たちからはっきりと分離され、
自らのせいで受けることになった永遠の責め苦に
耐え続けていかなければならなくなります。