本当に、
この方は私たちの病を負い、私たちの痛みを担われたのです。
(中略)この方は私たちの罪過のために傷つけられ、
私たちの不義のために砕かれたのです。
罰はこの方の上にふりかかりました。
それは、私たちに平和をもたらすためでした。
この方の傷によって私たちは癒されたのです。
(「イザヤ書」53章4~5節)(その1)
人は、
(自分の)十字架や(長引く)病気などの苦しみの中にいる間は、
時間がたつのが遅く感じられ、あせりいらだちます。
自分の苦しみがいつ終わるのか(あらかじめ)見てとれる場合には、
その苦しみに耐えるのも難しくはありません。
そのようなとき人は、
「ちょうど今は悪い時だ(あるいは「悪い日だ」、「悪い週だ」)。
でもこの後にもっとよい時がくる」、
などと考えるものです。
しかし、もしも終わりが見えない場合には、
どのような苦しみでも耐えがたく感じられます。
たとえその苦しみがほんの15分間だけ続く場合であっても。
信仰者のすべての苦しみは些細なものであり、
ごくわずかの間だけ続くものです。
なぜなら、
苦しみが際限なく続いたりしないように、
神様がお定めになっているからです。
私たちは御言葉と神様の御心を見つめることを学ぶべきです。
そうすれば、
どれほど辛いことであっても、
すべてに関して耐え忍ぶことができるからです。