2025年11月17日月曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」5章46節「もっと愛しなさい」

「もっと愛しなさい」 

あなたがたを愛する者たちをあなたがたが愛したとしても、

なんの報いがありましょうか。

取税人たちもそれと同じことをしているではないですか。 

(「マタイによる福音書」546節)

 

キリスト信仰者はすべてに関して世の子らよりも多くのよい行いをし、

またよりよい生きかたをしなければならないのでしょうか。

キリストを信じていない人が

「自分はキリスト教徒と同じようによい人間である」と言い切る場合に、

むしろキリスト信仰者のほうにこそ

反省すべき課題があるということになるのでしょうか。

 

救い主は御言葉を通してまさにこのことに言及しておられるのです。

もしも私たちが自分らを愛してくれる人々だけを愛するのなら、

私たちのその愛は「交換し合う商品」のようなものではありませんか。

「私はあなたに、そしてあなたは私にあげます。これでおあいこですね」

といった具合にです。

しかし、これは愛の見せかけを装った利己主義にすぎません。

 

キリスト信仰者の愛は、

神様の御子が私たちのために死んでくださった十字架から、

その力を得ています。

神様はその独り子をお与えになるほど、

この惨めな世を深く愛してくださいました。

しかも、人間のほうからのお返しの愛を受けることがなかったのです。

ここにキリスト教の愛の模範と力があります。

あなたの愛の行いに対して、

相手からは何の報いも見返りも期待するべきではありません。

感謝されることさえ期待するべきではないのです。

それゆえ、

私たちは神様の御許から真っ先に溢れてくる愛の源泉のすぐ近くに

常に留まっている必要があります。

 

(祈り)

愛そのものなる主よ、

あなたは十字架で罪人たちのために死んでくださいました。

愛する主よ、

あなたは天の御国の救いそのものです。

愛する主よ、

あなたはこの救いを他の全ての人々にも整えてくださいました。

愛なる主よ、

私は自分自身を永遠にあなたにささげます。

アーメン。

(関連聖句)「コリントの信徒への第一の手紙」13

2025年11月13日木曜日

「力なき者に力を」「詩篇」36篇8節「このお方の守りの中で」

「このお方の守りの中で」

神様、あなたの憐れみはいかに尊いことでしょう。

人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得ます。

(「詩篇」368節)

 

私たちは不平を言うのに慣れすぎています。

感謝の心を持って一日を過ごすのは稀です。

自分に何が欠けているかばかりを考えて、

毎日いただいている恵みと祝福のありがたみを忘れています。

心の安らぎのない時には、

神様が私たちに必要な日用の糧のすべてを満たしてくださっていることを

思い起こしません。

イエス様が十字架の死によって

私たちを罪と死からあがなってくださったことも忘れています。

 

日々、私たちは罪の赦しを受け取ることが許されており、

恐れを抱かずに、天の御父様の御前でゆったりくつろいでよいのです。

 

神様は私たちを御自分の翼のかげに覆い隠されることで毎日守っておられます。

このことについて私たちは感謝するべきです。

 

せわしないこの世で、毎時、毎瞬、私たちは危険にさらされ続けています。

たとえ朝に家を出る時には健康であった場合でも、

その同じ夜には体が不自由になっていたり、

あるいは死んでしまったりするかもしれないことを

私たちは知る由もないからです。

 

私たちは神様に完全に依存して生きています。

私たちはこのお方を信頼していますか。

御自身の愛する御子のゆえに、

私たちは「このお方のもの」とされています。

このお方は私たちを

御子の尊い血によって買い取られた者として扱っておられます。

神様は私たちのことをこれまでも実によく面倒を見てこられたのですから、

終わりまで私たちの世話をしてくださることでしょう。

 

神様のお許しがないままに私たちの上に起こる出来事は何もありません。

神様は御自分を愛する者たちと共に働いて

万事を彼らの益となるようにしてくださるのです

(「ローマの信徒への手紙」828節より)。

 

(祈り)

私の魂よ、主に感謝しなさい。

私の内なるすべてのものよ、その聖なる御名に感謝しなさい。

私の魂よ、主に感謝しなさい。

そのすべての善き御業を忘れてはいけません。

主はあなたのすべての不義を赦し、

あなたのすべての病を癒してくださるのです。

(「詩篇」10313節)

(関連聖句)「詩篇」91

2025年11月7日金曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」4章42節より「私たちは自分自身で聴きました」

「私たちは自分自身で聴きました」

私たちが信じるのは、

もうあなたが話してくれたからではありません。

自分自身で聴いて、

このお方こそが真なる世の救い主であられることがわかったからです。 

(「ヨハネによる福音書」442節より)

 

責任感の欠如した生活を送ってきたある女の人が

イエス様と出会って自分の罪を悔い、

イエス様を救い主として受け入れました。


この女の人が救い主について証をするのを聴いて、

彼女の村の住人たちはイエス様の話を聴くために出かけました。

彼女の証が彼らをイエス様の御許へと導いたのですが、

今や彼ら自身もイエス様を信じるようになりました。


そしてその信仰は、

彼女がイエス様について彼らに話し聞かせたからであるというより、

むしろ「イエス・キリストこそが真に世の救い主である」

というイエス様御自身の言葉によって与えられたものであることを

彼らは公に告白しました。

 

「イエス・キリストこそが真に世の救い主である」

という確信を与えてくれるのは神様の御言葉だけです。

人間の信仰は、

それが説教者の話や人間の理解に基づくものであるかぎり、

確固とした基盤をもつものではありません。

信仰は

神様の御言葉そのものを基盤とする場合にのみ堅固なものとなるのです。

御言葉にしっかりと碇を下ろした信仰は崩れることがありません。

 

いまイエス様は栄光に輝く天国におられますが、

それと同時に私たちの只中にもおられるのです。

聖書の言葉はイエス様御自身の御言葉であり、

聖書を読む時に私たちはイエス様の御声を聴いています。


説教者の巧みさや熱心さなどは決して信仰の基盤にはなりえません。

御言葉において働かれる聖霊様だけが確信を与えてくださるのです。

信仰は人間の宗教性にではなく神様の力に基づいています。

 

御言葉を聴く時に私たちはイエス様を観ています。

このように福音は

たんに言葉としてではなく御言葉の中にある神様の力として

私たちのところにやってきます。

こうして信仰は成長し強められていくのです。

 

(祈り)

主よ、命を与えるあなたの御言葉を聴いて

その中に堅く留まることができるように、

どうか私たちを助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「ヨハネによる福音書」42842

2025年10月31日金曜日

「力なき者に力を」「フィリピの信徒への手紙」1章2節「真の平和と偽りの平和」

「真の平和と偽りの平和」

私たちの父なる神様と主イエス・キリストから

恵みと平和とがあなたがたにありますように。

(「フィリピの信徒への手紙」12節)

 

神様の恵みが私たちに平和をもたらしました。

イエス様の死を通して、私たちは神様と和解させていただきました。

神様が平和を創ってくださったのです。

福音とは、

愛してくださる神様の心への道を私たちに開いてくれる平和のメッセージです。

 

神様の平和を有している時、

私たちは自分にとって可能なかぎり、

すべての人と平和に生活するように励みます。

私たちは平和をつくる者になるのです。


神様の真理に抵触することでないかぎりは、

私たちは争いごとを巻き起こすよりも不公正を耐え忍ぶほうを選びます。


しかし神様の御言葉に関わる場合には、

外面的な平和を取り繕うために沈黙したり妥協したりはできません。


神様の御言葉に対して忠実であることは、

御言葉に反抗的な人々による偽りの平和をかき乱します。

 

神様の平和のみが疾しさのない良心を与えてくれます。

それは私たちの心と考えをキリスト・イエスにあって守ります。


平和のない生活の只中で、

イエス様は今なお私たちに次のように言っておられます。

 

「私は平和をあなたがたに残して行きます。

私の平和をあなたがたに与えます。

私が与えるのは世が与えるようなものとは異なります。

あなたがたは心を騒がせてはいけません。

またおじけてもいけません。」

(「ヨハネによる福音書」1427節)

 

家族の一人一人が神様と平和な関係にある家庭では

平和と愛が支配しています。

どこであれ、キリスト信仰者は

争いごとや妬みや憎しみや復讐を避けようとするものです。

 

(祈り)川を越えてバベルからいつか逃走するとき、

祖国で竪琴をかき鳴らし感謝の賛美をささげられるように助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「エフェソの信徒への手紙」21118

2025年10月27日月曜日

「力なき者に力を」「ヨハネの第一の手紙」1章7節「交わり」

「交わり」 

しかし、

神様が光の中にいるように

私たちも光の中を歩くならば、

私たちは互に交わりをもち、

この方の御子イエス様の血が

すべての罪から私たちをきよめます。 

(「ヨハネの第一の手紙」17節)

 

キリスト信仰者同士の交わりはとても大切です。

それはキリストにおける交わりです。

教義と信仰告白における交わりです。

このような交わりの中で真の友情が形作られていきます。

 

キリスト信仰者同士の交わりは神様からの尊い賜物です。

それが家族の中や複数の家族間で実現するとき、

「私たちは同じ信仰を持つ人々の集まりの中に入っている」

という実感が様々な形で強められていきます。


主イエス様の真の教会は

キリスト信仰者たちの一致団結に基づいて築かれます。

実のところ、

ルター派の信仰告白書(「ルーテル教会一致信条書」)に書いてあるように、

キリスト信仰者たちこそが「教会」なのです。  

 

キリスト信仰者は御言葉と聖礼典の力によってイエス様を信じて生きています。

彼らは互いに支え合い、悲しんでいる人を慰めます。

また、共に励まし、理解し、喜び、嘆きます。

彼らはまた互いに助言し合い、注意し合います。

 

不信仰な者たちとの交わりは人を罪に堕落させる危険をともないます。

間違った友人関係は人を神様の御言葉と救い主から引き離します。

御言葉を聴いても何も心に響かなくなります。

信仰と祈りに対して冷淡な態度をとるようになります。

この世的なものへの愛着が湧き出てきます。

しかし、それは神様に敵対することなのです。

この世の子らのよい友人になるくらいだったら、

ひとりきりになるほうがよっぽどましです。

しかしその一方で、

実の兄弟よりも忠実な友人たちも存在します。

そのような友人たちは神様からの賜物なのです。

 

(祈り)

主よ、

交わりについて、また信仰の兄弟姉妹についてあなたに感謝します。

どうかこの交わりの中で私が生きていけるようにお助けください。

そして、よいキリスト信仰者の友だちを私にお与えください。アーメン。

(関連聖句)「サムエル記上」1814

2025年10月17日金曜日

「力なき者に力を」「ヨエル書」4 章14節「群衆」

「群衆」

群衆という群衆が裁きの谷に集結しています。
主の日が裁きの谷に近づいているのです。  

(「ヨエル書」14節)

 

世の救い主が苦しみを受けて十字架へと連行される時、

群衆は侮り、嘲り、悪口を言い、

「そいつを十字架につけろ!」と呪いの言葉をイエス様に浴びせました。

それと同じように

今日の多くの人々も、

老いも若きも、裕福な人も貧乏な人も、

自分が何をしているかわからないまま、

こぞって救い主を侮り、騒ぎ立て、愚弄しています。

 

人間の世界は根の深い不穏と動乱に満ちています。

現状に対する人々の不満は

デモ行動や流血を伴う騒乱となって世界各地で表面化しています。

こうした行動の矛先が

教会やキリスト信仰者たちに向けられるのもめずらしくありません。

例えば、キリスト教が国教である国でさえ、

討論会などの公の場所で、

好機到来とばかり神様の御言葉と海外伝道活動を侮蔑する人々がいます。

落ち着きなく騒ぎ立つ群衆は

神様の御声を聴くために立ち止まる余裕も意志も持ち合わせていません。

 

騒々しい反対の声を上げる群衆に囲まれて

キリスト信仰者としての確固たる態度を保つのは容易なことではありません。

しかし、聖霊様は忍耐と沈着冷静さと謙虚さを与えてくださいます。

罪の赦しの中におかれていることによって

私たちには義と平和と喜びが与えられます。

十字架に上げられたイエス様の力は群衆のそれよりも大きいのです。

神様の聖なる御言葉である福音は

不穏なこの世にあって神様の御業を行い、その力を発揮します。

私たちは神様に守っていただけるのです。

 

(祈り)

主イエス様、

あなたが私のことを恥と思わずに済むように、

どうか私にこの不穏な世の中にあって

あなたのことを証する恵みを与えてください。

アーメン。

(関連聖句)「マタイによる福音書」273943

2025年10月10日金曜日

「力なき者に力を」「詩篇」139篇23節「私たちのさまざまな思いの道筋」

「私たちのさまざまな思いの道筋」

神様、どうか私を探索して私の心を知り、

私を試験して私のさまざまな思いを知ってください。 

(「詩篇」13923節)

 

人の抱く思いは無意味なものではありません。

ところが

「言葉と行いがよいものでありさえすれば、

心では何を思っていてもかまわない」

と考えている人はたくさんいます。

実際には、

人が心で思っていることこそがその人の本当の姿をあらわしているものです。

 

いろいろな思いから、すべては出来上がっていきます。

悪い思いは人を汚し、壊します。

善い思いは人を築き上げ、高めます。

思いに従って人は活動するものです。

思いは言葉と行いが育つ元になる種のようなものです。

 

「油断することなくあなたの心を守りなさい。

命はここから流れ出るものだからです」

(「箴言」423節)。 

 

どんなことを自分が考えているか、油断なく見張るべきです。

低俗な罪深い思いにとらわれたのなら、

それを見過ごしにはせずに「罪」として、神様に告白するべきです。

神様は私たちの心を探索なさいますが、

私たちの側からも、神様がそのようになさることを願うべきです。

そのとき、一切の事柄は神様の御前で包み隠さず明らかにされます。

どのみち、この主の御前で、

私たちはいずれ必ず人生の清算を行わなければならなくなるのです。

 

キリスト信仰者は

「内なる人」が聖霊様を通して力を得て強められるように、

絶えず自分自身を鍛錬していく力をいただけるように願います。

それは、

愛する私たちの救い主が信仰を通して

私たちの心に住んでくださるようになるためです。

信仰にあって「救い主のもの」として生きるとき、

私たちは「キリストの思い」をいただきます。

そのときには、

嫉妬や姦淫や疑念や憎悪や怨念といった

思いにとらわれて生きることを望まなくなり、

善い生きかたと思われる、

あらゆる面で清い生きかたをしようと励むようになります。

 

(祈り)神様、どうか私に清い心をお創りください。

私の中に揺るがぬ霊を新たになさってください

(「詩篇」5112節)。

アーメン。

(関連聖句)「コロサイの信徒への手紙」314

2025年9月22日月曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」7章5節「憐れみに欠けた裁き」

「憐れみに欠けた裁き」 

偽善者よ、

あなたは、まず自分の目から梁を取り除きなさい。

そうすれば、

兄弟の目からちりを取り除けるために、

はっきり見えるようになります。

(「マタイによる福音書」75節)

 

神様の憐れみとキリストの愛を体験した人は、

自分でも憐れみのわざを行います。


私たちの弱さは、他の人の欠点や間違いに目が行くところにあります。

他の人の悪さはいつも目に留まり、その罪は大きく見えます。

他の人の罪を裁くのは正しくまた必要なことでもある、

と私たちは感じています。

 

憐れみに欠けた裁きは、心が盲目でかたくななためになされます。


「あなたがたの中で罪のない者が、最初にこの女に石を投げつけなさい」

(「ヨハネによる福音書」87節より)

とイエス様がおっしゃると、

罪深い女を責め立てていた者たちは皆一様に黙りこみ、

その場を立ち去りました。

 

私たちが各々

まず自らの欠点を見つめることを学び、

それに打ち勝つように努力し、

他の人のことを憐れみに欠けた冷たい心で裁かないようにするならば、

人生ははるかによいものになることでしょう。


偽善者にならないように注意しましょう。

 

私たちが憐れんでいただいたのは、

私たちも憐れみのわざを行っていくためであることを忘れてはいけません。


イエス様は裁く代わりに、

私たちが本来受けるべき罰を私たちの身代わりとして

苦しんでくださったのです。


このようにイエス様が私たちをすべてまとめて

御自身の上に引き受けてくださっているのですから、

私たちもまた深い憐れみを持って互いに重荷を担い合おうではありませんか。

 

(祈り)全世界を裁かれる主よ、あなたは

「憐れみのわざを行わなかった者たちに対する裁きは

憐れみに欠けたものになる」と警告なさっておられます。

罪に落ち込んだ者たちを私たちが理解をもって憐れみ、

正しい裁きを行うことができるように、どうか私たちを助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「マタイによる福音書」715

2025年9月5日金曜日

「力なき者に力を」「ネヘミヤ書」8章10節より「喜びの中にある力」

「喜びの中にある力」

 

主を喜ぶことがあなたがたの力です。 

(「ネヘミヤ書」810節より)

 

悲しみは落ち込ませ、喜びは力付けてくれます。

仕事は喜んで取り掛かると大体うまくいくものです。

憂鬱な心は仕事をする力を奪ってしまう場合もあります。

 

すでに喜びそれ自体にこれほどの力があるのですから、

主における喜びこそは力の特別な源泉なのです。

この喜びは清く穏やかです。

なぜならこれは、

イエス様のゆえに私たちの罪を赦してくださった憐れみ深い神様に

安心して信頼を寄せる心から生じてくる喜びだからです。

この喜びは時の移り変わりにも失敗や悲しみにも左右されることがありません。

 

キリスト信仰者はこの世で喜びを保つことができます。

全能なる神様がキリスト信仰者の御父だからです。

神様は私たちが願ったり理解したりすることすべてをはるかに超える

御業を行うことができますし、またそうすることを望んでもおられます。

神様は私たちの一生の間、手を引いて私たちを導くことを約束なさっています。

 

キリスト信仰者は常に喜びを保つことができます。

なぜなら、

罪から解放してくださったイエス様を自分のためにいただいているからです。

神様との平和が保たれている時、人には恐れを抱く理由が何もありません。


「私は主にあって大いに喜び、私の魂は私の神様を喜びます。

主は私に救いの衣を着せ、義の上衣をまとわせてくださいます」

(「イザヤ書」6110節より)

と私たちは言い切ることができるのです。

 

私たちは主にあって喜びつつ試練に勝利する力と、

救い主にお仕えする力をいただきます。

私たちは自分自身に関わる事柄を主の御旨にゆだねます。

神様の平和がキリスト・イエスにあって私たちの心を守ってくれます。

 

(祈り)

私がどのような日であれ日々生きていく力をいただくために、

救いの御霊なる喜びの聖霊様、

どうかあなたの喜びから私にも喜びをお与えください。

アーメン。

(関連聖句)「フィリピの信徒への手紙」4414

2025年8月22日金曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」12章30節「あれか、これか」

「あれか、これか」

私と共にいない者は私に反対する者であり、

私と共に集めない者は散らす者です。

(「マタイによる福音書」1230節)

 

口が聞けず目が見えない男の人からイエス様は悪霊を追い出しました。

その後、その男の人は話すことも見ることもできるようになりました。

その場に立っていた群衆は、

このイエスという人が(旧約)聖書にその到来が約束されている

メシアではあるまいか、と思うようになりました。

それに対して、ファリサイ派の人々は

「イエスは悪霊たちの頭領の力を借りて悪霊を追い出している」

と言い張りました。

イエス様はこの言いがかりの愚かさを明るみに出し、

御自分の教えを上掲の言葉で締めくくりました。

 

これは大切な言葉です。


世界は二つの陣営に分かれています。

一方は悪魔の勢力下にあり、

もう一方はキリストが指揮なさっています。

そのどちらにも属さない人は誰もいません。

私たちはキリストと共にいるか、

あるいはキリストに反対しているか、

そのどちらかです。


イエス様こそが

その血によって罪と死と悪魔の圧制から私たちを贖われた

唯一の救い主であられることを信仰を持って告白しない人は、

イエス様に敵対する側の陣営の一員になってしまいます。


もしもこの世を前にしてイエス様への信仰を公けに表さないなら、

また、もしもイエス様と共に人々を永遠の命へと導かないのなら、

私たちは神様の御国の御業を妨げることになってしまいます。

 

好感を抱くだけでは足りません。


私たちは自分を捨て、自分の十字架を担い、

イエス様に従わなければなりません。


イエス様は私たちのために十字架を担い、

尊い代価を払って私たちを「御自分のもの」とするために

い取ってくださったのです。


私たちがどちらのグループに属しているかについて、

聖霊様は曖昧な状態に放置なさらずに、

私たちを決断へと導いてくださいます。

 

(祈り)恵みの神様、

私がいつもイエス様につながりイエス様と共に集めることができるように、

どうか助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「マタイによる福音書」122250