2025年9月22日月曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」7章5節「憐れみに欠けた裁き」

「憐れみに欠けた裁き」 

偽善者よ、

あなたは、まず自分の目から梁を取り除きなさい。

そうすれば、

兄弟の目からちりを取り除けるために、

はっきり見えるようになります。

(「マタイによる福音書」75節)

 

神様の憐れみとキリストの愛を体験した人は、

自分でも憐れみのわざを行います。


私たちの弱さは、他の人の欠点や間違いに目が行くところにあります。

他の人の悪さはいつも目に留まり、その罪は大きく見えます。

他の人の罪を裁くのは正しくまた必要なことでもある、

と私たちは感じています。

 

憐れみに欠けた裁きは、心が盲目でかたくななためになされます。


「あなたがたの中で罪のない者が、最初にこの女に石を投げつけなさい」

(「ヨハネによる福音書」87節より)

とイエス様がおっしゃると、

罪深い女を責め立てていた者たちは皆一様に黙りこみ、

その場を立ち去りました。

 

私たちが各々

まず自らの欠点を見つめることを学び、

それに打ち勝つように努力し、

他の人のことを憐れみに欠けた冷たい心で裁かないようにするならば、

人生ははるかによいものになることでしょう。


偽善者にならないように注意しましょう。

 

私たちが憐れんでいただいたのは、

私たちも憐れみのわざを行っていくためであることを忘れてはいけません。


イエス様は裁く代わりに、

私たちが本来受けるべき罰を私たちの身代わりとして

苦しんでくださったのです。


このようにイエス様が私たちをすべてまとめて

御自身の上に引き受けてくださっているのですから、

私たちもまた深い憐れみを持って互いに重荷を担い合おうではありませんか。

 

(祈り)全世界を裁かれる主よ、あなたは

「憐れみのわざを行わなかった者たちに対する裁きは

憐れみに欠けたものになる」と警告なさっておられます。

罪に落ち込んだ者たちを私たちが理解をもって憐れみ、

正しい裁きを行うことができるように、どうか私たちを助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「マタイによる福音書」715

2025年9月5日金曜日

「力なき者に力を」「ネヘミヤ書」8章10節より「喜びの中にある力」

「喜びの中にある力」

 

主を喜ぶことがあなたがたの力です。 

(「ネヘミヤ書」810節より)

 

悲しみは落ち込ませ、喜びは力付けてくれます。

仕事は喜んで取り掛かると大体うまくいくものです。

憂鬱な心は仕事をする力を奪ってしまう場合もあります。

 

すでに喜びそれ自体にこれほどの力があるのですから、

主における喜びこそは力の特別な源泉なのです。

この喜びは清く穏やかです。

なぜならこれは、

イエス様のゆえに私たちの罪を赦してくださった憐れみ深い神様に

安心して信頼を寄せる心から生じてくる喜びだからです。

この喜びは時の移り変わりにも失敗や悲しみにも左右されることがありません。

 

キリスト信仰者はこの世で喜びを保つことができます。

全能なる神様がキリスト信仰者の御父だからです。

神様は私たちが願ったり理解したりすることすべてをはるかに超える

御業を行うことができますし、またそうすることを望んでもおられます。

神様は私たちの一生の間、手を引いて私たちを導くことを約束なさっています。

 

キリスト信仰者は常に喜びを保つことができます。

なぜなら、

罪から解放してくださったイエス様を自分のためにいただいているからです。

神様との平和が保たれている時、人には恐れを抱く理由が何もありません。


「私は主にあって大いに喜び、私の魂は私の神様を喜びます。

主は私に救いの衣を着せ、義の上衣をまとわせてくださいます」

(「イザヤ書」6110節より)

と私たちは言い切ることができるのです。

 

私たちは主にあって喜びつつ試練に勝利する力と、

救い主にお仕えする力をいただきます。

私たちは自分自身に関わる事柄を主の御旨にゆだねます。

神様の平和がキリスト・イエスにあって私たちの心を守ってくれます。

 

(祈り)

私がどのような日であれ日々生きていく力をいただくために、

救いの御霊なる喜びの聖霊様、

どうかあなたの喜びから私にも喜びをお与えください。

アーメン。

(関連聖句)「フィリピの信徒への手紙」4414

2025年8月22日金曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」12章30節「あれか、これか」

「あれか、これか」

私と共にいない者は私に反対する者であり、

私と共に集めない者は散らす者です。

(「マタイによる福音書」1230節)

 

口が聞けず目が見えない男の人からイエス様は悪霊を追い出しました。

その後、その男の人は話すことも見ることもできるようになりました。

その場に立っていた群衆は、

このイエスという人が(旧約)聖書にその到来が約束されている

メシアではあるまいか、と思うようになりました。

それに対して、ファリサイ派の人々は

「イエスは悪霊たちの頭領の力を借りて悪霊を追い出している」

と言い張りました。

イエス様はこの言いがかりの愚かさを明るみに出し、

御自分の教えを上掲の言葉で締めくくりました。

 

これは大切な言葉です。


世界は二つの陣営に分かれています。

一方は悪魔の勢力下にあり、

もう一方はキリストが指揮なさっています。

そのどちらにも属さない人は誰もいません。

私たちはキリストと共にいるか、

あるいはキリストに反対しているか、

そのどちらかです。


イエス様こそが

その血によって罪と死と悪魔の圧制から私たちを贖われた

唯一の救い主であられることを信仰を持って告白しない人は、

イエス様に敵対する側の陣営の一員になってしまいます。


もしもこの世を前にしてイエス様への信仰を公けに表さないなら、

また、もしもイエス様と共に人々を永遠の命へと導かないのなら、

私たちは神様の御国の御業を妨げることになってしまいます。

 

好感を抱くだけでは足りません。


私たちは自分を捨て、自分の十字架を担い、

イエス様に従わなければなりません。


イエス様は私たちのために十字架を担い、

尊い代価を払って私たちを「御自分のもの」とするために

い取ってくださったのです。


私たちがどちらのグループに属しているかについて、

聖霊様は曖昧な状態に放置なさらずに、

私たちを決断へと導いてくださいます。

 

(祈り)恵みの神様、

私がいつもイエス様につながりイエス様と共に集めることができるように、

どうか助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「マタイによる福音書」122250

2025年8月18日月曜日

「力なき者に力を」「コロサイの信徒への手紙」1章28節「信仰的に成人になること」

「信仰的に成人になること」

私たちはこのキリストを宣べ伝え、

知恵を尽くしてすべての人を訓戒し、

また、すべての人を教えています。

それは、私たちがすべての人を

キリストにあって全き者として立つようにするためです。 

(「コロサイの信徒への手紙」128節)

 

神様の御言葉の目的は、

一人一人がキリスト・イエスにあって

信仰的に成人になるように助けることです。


私たちは神様の子どもであり、

子どもの素直な信仰をもっていますが、

信仰にかかわる知識においては子どもであってはなりません。


恵みの中で育ち、

救い主イエス様についての正しい知識を深めていくために、

私たちは自分を鍛錬します。

 

恵みの中で育つこととは、恵みを必要としながら育つことです。

私たちは自分のことや自分の罪深さを知れば知るほど、

それだけ深く救い主を信頼することを学ぶようになります。

 

私たちはイエス様を知るようになるにつれて、

知識において、また神様の御言葉についての理解や経験を積んで、

成長していきます。


このようにして信仰的に成人になっていくことは大いなる祝福をもたらします。


さまざまな教えの流行に翻弄されないように私たちを守ってくれるのです。


また、間違った教えの危険についても警告してくれます。


私たちはイエス様の十字架の恵みの中に堅固な避け所を求める大切さを学び、

また、十字架を担う力を得るのです。


恵みの中で育つことは、誘惑や試練の最中でも忍耐する心を与えてくれます。


何が真理であり正しいことかについて、

より強い確信が私たちの中で育まれていきます。


そして、私たちは神様の御言葉に基づいてすべてを評価することを学びます。


また、救い主の光の中を歩んでいくことができるようになります。

 

(祈り)

私の主よ、健全な教えの与える栄養を味わえるように、

また、真理にあってあなたに仕える人たちとの交わりを保てるように、

さらに、キリスト信仰者にふさわしい生活をしていけるように、

どうか私を助けてください。

どうかあなたの助けによって、

私がキリストにあって信仰的な成人となれますように。

アーメン。

(関連聖句)「コロサイの信徒への手紙」12129

2025年8月11日月曜日

「力なき者に力を」「使徒言行録」2章45節「与える者は豊かになる」

「与える者は豊かになる」 

彼らは資産や持ち物を売っては、必要に応じて皆に分け与えました。  

(「使徒言行録」245節)

 

エルサレムの最初のキリスト教会の会員たちは、

その大多数が貧しい人々だったにもかかわらず、豊かでした。

自分の持ち物を分ける時に、彼らは豊かでした。

なぜなら、与える者は豊かになるからです。


日々のささやかな生活を送るのに必要なものより多くのものを

実は自分たちが持っていることに、彼らの多くは気がつきました。

彼らは余剰なものを他の人々に分け与えたので、

皆がそれぞれの必要を満たすことができました。

彼らキリスト信仰者たちは救い主の次の御言葉を覚えていたのです。


「あなたがたが私の兄弟である

これらの最も小さい者のひとりに対してしたことはすべて、

私に対してしたのです」

(「マタイによる福音書」2540節より)

 

与えた人たちは愛に基づいて行動したため、

喜びのゆえに豊かになりました。


贈り物を受け取った人々は

それが愛の贈り物だったことを理解し、

神様が彼らの世話をしてくださることを

以前にも増して信頼するようになりました。


こうして、愛を受けた者が周りにも愛を分けるようになっていきました。

 

私たち怒りの子らを救うために、

神様の愛はその独り子をこの世に遣わしました。


「神様がこのように私たちを愛してくださったのですから、

私たちも互いに愛し合うべきです」 

(「ヨハネの第一の手紙」411節)

と使徒も書いています。


神様の愛が私たちにおいて完全になり、

私たちが互いにすすんで愛し合うようになることを

祈り求めていこうではありませんか。

  

(祈り)

主よ、不正がはびこり多くの人の愛が冷え切っている今日、

どうかあなたの愛を私たちの心に注いでください。

それによって、

私たちが優しい心と燃える愛をいただくようになるためです。

アーメン。

(関連聖句)「ルカによる福音書」103037

2025年6月26日木曜日

「力なき者に力を」「ルカによる福音書」15章24節より「再び見い出された者」

「再び見い出された者」

この私の息子は死んでいたのに生き返り、

いなくなっていたのに見つかったのですから。

(「ルカによる福音書」1524節より)

  

ある子どもが森で迷子になり、

しまいには草むらに眠り込んでしまいました。

父親がその子を見つけて抱き上げました。

「お父さん、やっと私を見つけてくれたんだね」

とその子は言いました。

 

私たちと神様との関係についても同じように考えることができます。

私たちはこの子どものような迷子です。

私たちは神様を探しています。

しかし、実は神様のほうこそ、私たちを捜しておられるのです。

私たちは神様を見つけられませんが、

神様のほうで私たちを見つけてくださるのです。

 

「あなたがたが私を選んだのではなく、

私があなたがたを選んだのです」

(「ヨハネによる福音書」1516節より)。

 

このことと関連してイエス様は「ルカによる福音書」15章で、

いなくなった羊と、なくなった銀貨と、放蕩息子についての譬を

語っておられます。

 

アダムとエバを楽園で捜された時以来、

神様は私たちのことも捜し続けてこられました。

父親の心は常に放蕩息子を捜していたのです。

お腹をすかせたこの放蕩息子はとうとう最後に、

「立って、父のもとへ帰ろう」(「ルカによる福音書」1518節より)

と言いました。

 

父親の善良さが放蕩息子を悔い改めへと導きます。

神様は憐れみ深いお方です。

魂を養う食べ物や、裸の恥を隠す衣服や、この世的な生きかたでは

決して知ることができない喜びを、

神様は私たちに賜るために用意してくださっています。

いなくなっていた者が見つかるとき、

天の御国の天使たちも一緒に喜ぶのです。

 

天の父なる神様の御許に戻ろうとせず、

イエス様よりもこの世のもののほうを愛している人々についても、

イエス様は語りかけておられます。

 

天の御父様が私たちを招待し待っておられるときに、

わたしは御許に行くのを躊躇しないようにしましょう。

天の御父様に

「私の子どもが再び戻ってきた」

という喜びをお返しいたしましょう。

 

(祈り)愛する天の父なる神様、

たとえ私たちが不実であっても、

あなたは忠実なお方です。

あなたの御許からもう迷い出ていかないように、

どうか私たちを助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「ルカによる福音書」151124

2025年6月13日金曜日

「力なき者に力を」「ペテロの第一の手紙」2章25節「羊飼いの声」

「羊飼いの声」

あなたがたは羊のようにさ迷っていましたが、

今はあなたがたの魂の牧者であり監督(ビショップ)である方の

御許に立ち戻ったのです。   

(「ペテロの第一の手紙」225節)

 

羊は臆病で自分の世話も満足にできない迷いがちな動物です。

羊には羊飼いが必要なのです。

「羊というものは多くの危険にさらされやすい」

と聖書は語っています。

私たちの「よい羊飼い」であるイエス様も

「羊は迷子になりやすい」と言っておられます。


私たちはまさしくそのような存在なのです。


たとえ目に見えるような大きな罪に落ち込まないとしても、

私たちは神様の律法の前では、

そのような罪に落ち込んだのと同様な罪人なのです。


罪が私たちの中に住まっていることを私たちは告白します。

 

私たちには羊飼いがおられます!


このお方は羊たちのために命を捨ててくださったのです。

このお方はさまよっている者を捜し求め、群れに戻してくださいます。

このお方は羊たちのことを知っており、それぞれ名前で呼んでくださるのです。

このお方は彼らを神様の御言葉と聖礼典によって

養い、訓育し、守り、救ってくださいます。

 

羊にとって一番大事なのは、自分の羊飼いの声を知ることです。


よい羊飼いの世話を受けているうちに、

羊飼いの声を聴き分けることができるようになっていきます。


神様の御言葉とは異なる声を聴くときに、イエス様の羊は逃げ去ります。

見知らぬ声に従うことはできないし、そのつもりもないからです。


もしも「よい羊飼い」なるイエス様の声を私たちが知らないのなら、

滅びがすぐそこまで来ていることになります。


「肥えたものと強いものとを私は滅ぼす」とよい羊飼いも言っておられます

(「エゼキエル書」3416節より。ヘブライ語原文からの私訳)。

「肥えた者と強い者」とは、

羊飼いの声にもはや耳を傾けようとはしない者たちのことです。


しかし、羊飼いは

「失われた者を捜し、迷い出た者を連れ戻し、

傷ついた者に包帯を巻き、衰弱した者を強くします」(同上)。

   

(祈り)よい羊飼いであられる主よ、

どうか私たちを御言葉と御霊によって導いてください。

アーメン。

(関連聖句)「ルカによる福音書」15110

2025年5月30日金曜日

「力なき者に力を」「フィリピの信徒への手紙」1章21節「試練の中で」

「試練の中で」 

私にとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益です。 

(「フィリピの信徒への手紙」121節)

 

キリスト信仰者は、

もうすでにこの恵みの時、この世の人生において、

たとえ万事が順調に運んでいる場合であっても、

「試練」の中におかれており、

主の使徒と共に次のように言います。


「私はこれら二つのものの間に板ばさみになっています。

この世を去ってキリストと共にいることを私は願っていますし、

その方がはるかに望ましいことです。

しかし、肉体にとどまっていることは、

あなたがたのためにはさらに必要なのです。」

(「フィリピの信徒への手紙」12324節)

 

現代では、

世界のキリスト教会のうちでその一部だけが実際の迫害の対象になっています。

キリスト教に対してある種の寛容さを示す国や社会もあります。

しかしこの「寛容さ」は、

世界が真のキリスト教に対して好意的になったからというよりも、

むしろキリスト教徒が

自らの信仰に関して熱意に欠けた曖昧な態度をとるようになり、

周囲との衝突を回避しているためなのかもしれません。

 

この世界にはキリスト教を憎悪している国家や人々が存在します。

こうした状況にあっても、

キリスト信仰者は主を信仰告白し、また隣り人に仕えます。

今日でも多くのキリスト信仰者が

その信仰のゆえに投獄されています。

また、多くのキリスト信仰者は

イエス様を自分の主と告白したために死ぬことになりました。


伝統的にキリスト教を国教としてきた国々においては、

迫害はもっと狡猾なやりかたで行われます。

不信仰な世界観が

「生と死」や「救いと滅び」に関する聖書の真理を揺るがそうとします。

大切なのは、

私たちにとって生きることはキリストであるということです。

その場合には、

私たちにとって死ぬことは益となるのです。

  

(祈り)

愛に満ちたあなたの御顔を私のほうへと向けてください。

私を投げ捨てず、あなたの恵みによって覆ってください。

イエス様、あなたは平和を与えてくださり、

天の御国の喜びへと運んでくださいます。アーメン。

(関連聖句)「ローマの信徒への手紙」1459

 

2025年5月22日木曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」9章4節「たった一つの命」

「たった一つの命」

 私たちは、私を遣わされたお方の御業を昼の間にしなければなりません。

夜が来ます。

すると誰も働けなくなります。

(「ヨハネによる福音書」94節)

 

イエス様にとって時は貴重なものでした。

すべての人間に関わる偉大な御業を成し遂げるために、

イエス様にはおよそ30年の時間しかなかったからです。


飼い葉桶でお生まれになった時から十字架で死なれる時に至るまでに、

イエス様は神様の御心を成就なさいました。

説教し、教え、苦しまれ、

すべての人間の救いのために死んでくださったのです。

 

「私は父の御業を行わなければならないのです」

とイエス様は言われました。

イエス様は与えられたすべての時間をまったく正しく使いきった後に

「成し遂げられた」

と言われました(「ヨハネによる福音書」1930節より)。


やるべきことでやらずじまいになったことは何一つありませんでした。

 

救い主は私たちに対しても

「夜が来ます。すると誰も働けなくなります」

と言っておられます。


人生の今この時が最も大切な時です。

「今は恵みの時、今は救いの日です」

(「コリントの信徒への第二の手紙」62節より)。


今日という日は、

働き、祈り、御国を築くために私たちに与えられているものです。

こうして私たちは注意して正しく時を用いることになります。


私たちを愛してくださり

私たちのために御自分を犠牲にされたイエス様に向けて、

私たちに与えられているこの時間を用いて生きて行くことにしましょう。

 

(祈り)主よ、私たちが日々を

あなたがくださった賜物と使命として受け取ることを教えてください。

空虚なことに時間を無駄使いしないようにどうか私たちをお守りください。

「私たちに自分の日々を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」

(「詩篇」9012節)。

(関連聖句)「コリントの信徒への第二の手紙」6110

2025年5月9日金曜日

「力なき者に力を」「コロサイの信徒への手紙」3章17節「イエス様の御名」

「イエス様の御名」

あなたがたのすることはすべて、

言葉によってであれ、行いによってであれ、

このお方を通して父なる神様に感謝しつつ、

いっさいを主イエスの御名によって行いなさい。

(「コロサイの信徒への手紙」317節)

 

古代エジプトのある建築家について次のような逸話が伝わっています。

彼はファラオの命令により、

当時の慣習に反してファラオの名前をピラミッドに刻みました。

しかしその際、彼は自分の名前を石のくぼんだところに刻み、

その上をモルタルで埋めた後で、

表面にファラオの名前を刻印したのです。

歳月が流れモルタルが剥がれ落ちると、

ピラミッドの建築家の名前が保存されたまま見つかりました。

一方、ファラオの名前は消えて忘れ去られました。

 

時が経つと共に世の栄華は消え去ります。

今日非常に高価なものでも明日にはもはや同じ価値を有してはいません。

しかし、イエス様の御名は決して消え去ることがありません。

 

イエス様の御名において、私たちには罪の赦しと永遠の義があります。

その御名によって、私たちは罪と死と地獄の力とに勝利します。

主の御名は強固な城であり、

義とされた者はそこへと馳せ急ぎ、守っていただけるのです。

 

この御名を信仰しつつ私たちが行ったり言ったりすることは、

決して消え去ることがありません。

神様の子どもたちは、あらゆる行いにおいてイエス様のことを覚えます。

例えば

「イエス様はこのことについて何と言われるだろうか」、

「イエス様は私がどのように活動するのを望んでおられるのか」

というように。


私たちはイエス様の御名を決して軽んじたくはありません。

すべてをイエス様の御名において行いましょう。

 

このように生きるとき、私たちは真理の中を歩んでいるのです。

 

(祈り)イエス様、

あなたの御名において私たちがすべてを行うようになさってください。

イエス様、私たちの日も夜もあなたの祝福の中において守ってください。

あなたの聖なる御言葉がどうか私たちの道の導き手となりますように。

アーメン。

(関連聖句)「ヨハネによる福音書」15712