「もっと愛しなさい」
あなたがたを愛する者たちをあなたがたが愛したとしても、
なんの報いがありましょうか。
取税人たちもそれと同じことをしているではないですか。
(「マタイによる福音書」5章46節)
キリスト信仰者はすべてに関して世の子らよりも多くのよい行いをし、
またよりよい生きかたをしなければならないのでしょうか。
キリストを信じていない人が
「自分はキリスト教徒と同じようによい人間である」と言い切る場合に、
むしろキリスト信仰者のほうにこそ
反省すべき課題があるということになるのでしょうか。
救い主は御言葉を通してまさにこのことに言及しておられるのです。
もしも私たちが自分らを愛してくれる人々だけを愛するのなら、
私たちのその愛は「交換し合う商品」のようなものではありませんか。
「私はあなたに、そしてあなたは私にあげます。これでおあいこですね」
といった具合にです。
しかし、これは愛の見せかけを装った利己主義にすぎません。
キリスト信仰者の愛は、
神様の御子が私たちのために死んでくださった十字架から、
その力を得ています。
神様はその独り子をお与えになるほど、
この惨めな世を深く愛してくださいました。
しかも、人間のほうからのお返しの愛を受けることがなかったのです。
ここにキリスト教の愛の模範と力があります。
あなたの愛の行いに対して、
相手からは何の報いも見返りも期待するべきではありません。
感謝されることさえ期待するべきではないのです。
それゆえ、
私たちは神様の御許から真っ先に溢れてくる愛の源泉のすぐ近くに
常に留まっている必要があります。
(祈り)
愛そのものなる主よ、
あなたは十字架で罪人たちのために死んでくださいました。
愛する主よ、
あなたは天の御国の救いそのものです。
愛する主よ、
あなたはこの救いを他の全ての人々にも整えてくださいました。
愛なる主よ、
私は自分自身を永遠にあなたにささげます。
アーメン。
(関連聖句)「コリントの信徒への第一の手紙」13章