「試練の中で」
私にとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益です。
(「フィリピの信徒への手紙」1章21節)
キリスト信仰者は、
もうすでにこの恵みの時、この世の人生において、
たとえ万事が順調に運んでいる場合であっても、
「試練」の中におかれており、
主の使徒と共に次のように言います。
「私はこれら二つのものの間に板ばさみになっています。
この世を去ってキリストと共にいることを私は願っていますし、
その方がはるかに望ましいことです。
しかし、肉体にとどまっていることは、
あなたがたのためにはさらに必要なのです。」
(「フィリピの信徒への手紙」1章23~24節)
現代では、
世界のキリスト教会のうちでその一部だけが実際の迫害の対象になっています。
キリスト教に対してある種の寛容さを示す国や社会もあります。
しかしこの「寛容さ」は、
世界が真のキリスト教に対して好意的になったからというよりも、
むしろキリスト教徒が
自らの信仰に関して熱意に欠けた曖昧な態度をとるようになり、
周囲との衝突を回避しているためなのかもしれません。
この世界にはキリスト教を憎悪している国家や人々が存在します。
こうした状況にあっても、
キリスト信仰者は主を信仰告白し、また隣り人に仕えます。
今日でも多くのキリスト信仰者が
その信仰のゆえに投獄されています。
また、多くのキリスト信仰者は
イエス様を自分の主と告白したために死ぬことになりました。
伝統的にキリスト教を国教としてきた国々においては、
迫害はもっと狡猾なやりかたで行われます。
不信仰な世界観が
「生と死」や「救いと滅び」に関する聖書の真理を揺るがそうとします。
大切なのは、
私たちにとって生きることはキリストであるということです。
その場合には、
私たちにとって死ぬことは益となるのです。
(祈り)
愛に満ちたあなたの御顔を私のほうへと向けてください。
私を投げ捨てず、あなたの恵みによって覆ってください。
イエス様、あなたは平和を与えてくださり、
天の御国の喜びへと運んでくださいます。アーメン。
(関連聖句)「ローマの信徒への手紙」14章5~9節