2017年11月3日金曜日

マルティン・ルター「活きるために」「ローマの信徒への手紙」1章16~17節より(その3)


私は福音を恥じません。
福音は、
信じる者たち皆にとっては、
救いとなる神様の力だからです。
(中略)
なぜなら、
そこに神様の義が、
信仰から信仰へと明らかにされているからです。
(「ローマの信徒への手紙」11617節より)(その3)

まだ存在していないことに関わりをもち、
それを信じるところに、
信仰の特性があります。
現に存在しているものを、
わざわざ信じる必要はありません。
そういったものの存在は感じ取れるし、
見えるからです。

大きな富と財産をもつ金持ちが、
「今年は飢え死にしないだろう」、と信じることは、
信仰とは呼べません。

しかし、
人がまったく蓄えがないにもかかわらず、
「神様を畏れ、まじめに仕事をする限り、
神様は天の父としてちゃんと養ってくださる」、
という神様の御言葉に信頼するならば、
それは真の信仰といえます。

すべては信仰しだいです。
信仰こそが、あらゆるキリスト信仰者の生活の基盤なのです。


信仰者は神様のうちに心の喜びをもっています。
しかし、不信者の場合はどうでしょうか。
彼らにはこの世的な物質の財産しかありません。
(キリスト信仰者の)私から見れば、
不信者が法的に相続するものは
何とも貧しく哀れな持ち物、
わずかばかりの遺産にすぎません。