2025年12月5日金曜日

「力なき者に力を」「ルカによる福音書」21章11節 「神様は自然の中で語りかけられる」

「神様は自然の中で語りかけられる」

また複数の大地震があり、あちこちに飢饉や疫病が起り、

いろいろと恐ろしいことや天からの凄まじいしるしがあるでしょう。 

(「ルカによる福音書」2111節)

 

御自分の本当のお姿と全能さとを人々が公に認めるようにするために、

神様は人間が見て驚愕を覚えるようなやりかたで語られることがあります。


人々が福音に対して心を閉ざす場合に、

神様は彼らが逃げられないようなやりかたで彼らに語りかけられるのです。


神様の御声は自然の力の中に響き渡っています。

万物は神様の御意志に服従しています。


このことは、神様の子どもたちにとっては益となり、

神様に敵対する者たちにとっては恐怖をもたらします。

 

神様のお許しの下に自然の諸力が揺り動かされる時、自然界は震撼します。


地震はひどい破壊をもたらし、

火山の噴火は地球全体の大気圏に影響を与える場合があります。

洪水は川岸やデルタ地帯を消滅させます。

大嵐は土地を広範囲にわたって荒廃させます。

干ばつは深刻な飢饉を引き起こします。

新型の病気は今も子どもや大人の命を奪っています。

すべてこれらの出来事には神様からの警告の声が反響しています。

それは、人々が罪を悔いて主を信じるようになるようにと招く声です。

 

今まで挙げた例や他の恐ろしい出来事は

「恵みの時」が短いことや「世の終わり」が速やかに到来することを

私たちに教えてくれます。

ですから、福音のうちに神様の救いの御声を聴きましょう。


キリストにあって神様は、全世界を御自分と和解させてくださり、

御自分で用意なさったこの和解を私たちが受け入れるようにと

願い続けておられます。

ですから、どうか主イエス様を、

イエス様を通していただける罪の赦し、命、救いを受け入れてください。

 

(祈り)隠れておられる神様、

あなたは多くのやりかたで私たちに語りかけておられます。

あなたの御許には罪の赦しが満ち溢れています。

それは、皆があなたを畏れ敬い信じるようになるためです。

アーメン。

(関連聖句)「ルカによる福音書」212533

2025年11月28日金曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」18章21節より「赦しなさい」

「赦しなさい」

主よ、

兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度赦さねばなりませんか。

七度までですか。

(「マタイによる福音書」1821節より)

 

罪深い者として私たちは

日々イエス様の救いの御業に守りを求めて逃げ込みます。

そして、憐れみ深い神様は

毎日イエス様のゆえに私たちの罪を赦してくださいます。

 

隣り人が私たちに対して罪を犯す時、

私たちは心からその人を赦しているでしょうか。


「赦す」と口ではよく言うものの、

実際には赦していないことがあります。


私たちは隣り人の罪を覚えていて、

さらにはそれについて他の人にも話しさえします。


例えば、再び喧嘩になると今までの喧嘩の内容も全部蒸し返されます。


人間とはそういうものです。


私たちは他の人の罪をしつこく覚えているくせに、

自分の罪はすっかり忘れてしまうのです。

 

ペテロは「自分は十分憐れみ深い」と考えていたことでしょう。

七回までも相手の罪を赦すことにしたからです。


当時の理解によれば、三回も罪を赦せば十分であるとされていました。


イエス様のお答えにある「77度」(あるいは770倍)は

「絶えざる罪の赦し」を意味しています。

この罪の赦しには制限も条件もありません。

まさしくこのように神様は罪を赦してくださったし、赦してくださるのです。


このことは私たちを慰めると同時に恥じ入らせもします。

私たちも同じように行うべきだからです。


また、私たちの隣り人も私たちの犯した罪を赦さなければならないのであり、

その量たるや、

私たちが赦すべき隣り人の犯した罪の量と同じくらいか、

あるいはおそらくそれ以上にのぼることでしょう。

 

(祈り)神様、

恵みの王座の御前で私たちがあなたに近づくことが許されていることを

あなたに感謝します。

また、あなたは罪の赦しを豊かに与えてくださいます。

そのことについても感謝します。

私たちに対して罪を犯した者たちを

私たちが心から赦すことができるように

どうか助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「コロサイの信徒への手紙」31217

2025年11月17日月曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」5章46節「もっと愛しなさい」

「もっと愛しなさい」 

あなたがたを愛する者たちをあなたがたが愛したとしても、

なんの報いがありましょうか。

取税人たちもそれと同じことをしているではないですか。 

(「マタイによる福音書」546節)

 

キリスト信仰者はすべてに関して世の子らよりも多くのよい行いをし、

またよりよい生きかたをしなければならないのでしょうか。

キリストを信じていない人が

「自分はキリスト教徒と同じようによい人間である」と言い切る場合に、

むしろキリスト信仰者のほうにこそ

反省すべき課題があるということになるのでしょうか。

 

救い主は御言葉を通してまさにこのことに言及しておられるのです。

もしも私たちが自分らを愛してくれる人々だけを愛するのなら、

私たちのその愛は「交換し合う商品」のようなものではありませんか。

「私はあなたに、そしてあなたは私にあげます。これでおあいこですね」

といった具合にです。

しかし、これは愛の見せかけを装った利己主義にすぎません。

 

キリスト信仰者の愛は、

神様の御子が私たちのために死んでくださった十字架から、

その力を得ています。

神様はその独り子をお与えになるほど、

この惨めな世を深く愛してくださいました。

しかも、人間のほうからのお返しの愛を受けることがなかったのです。

ここにキリスト教の愛の模範と力があります。

あなたの愛の行いに対して、

相手からは何の報いも見返りも期待するべきではありません。

感謝されることさえ期待するべきではないのです。

それゆえ、

私たちは神様の御許から真っ先に溢れてくる愛の源泉のすぐ近くに

常に留まっている必要があります。

 

(祈り)

愛そのものなる主よ、

あなたは十字架で罪人たちのために死んでくださいました。

愛する主よ、

あなたは天の御国の救いそのものです。

愛する主よ、

あなたはこの救いを他の全ての人々にも整えてくださいました。

愛なる主よ、

私は自分自身を永遠にあなたにささげます。

アーメン。

(関連聖句)「コリントの信徒への第一の手紙」13

2025年11月13日木曜日

「力なき者に力を」「詩篇」36篇8節「このお方の守りの中で」

「このお方の守りの中で」

神様、あなたの憐れみはいかに尊いことでしょう。

人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得ます。

(「詩篇」368節)

 

私たちは不平を言うのに慣れすぎています。

感謝の心を持って一日を過ごすのは稀です。

自分に何が欠けているかばかりを考えて、

毎日いただいている恵みと祝福のありがたみを忘れています。

心の安らぎのない時には、

神様が私たちに必要な日用の糧のすべてを満たしてくださっていることを

思い起こしません。

イエス様が十字架の死によって

私たちを罪と死からあがなってくださったことも忘れています。

 

日々、私たちは罪の赦しを受け取ることが許されており、

恐れを抱かずに、天の御父様の御前でゆったりくつろいでよいのです。

 

神様は私たちを御自分の翼のかげに覆い隠されることで毎日守っておられます。

このことについて私たちは感謝するべきです。

 

せわしないこの世で、毎時、毎瞬、私たちは危険にさらされ続けています。

たとえ朝に家を出る時には健康であった場合でも、

その同じ夜には体が不自由になっていたり、

あるいは死んでしまったりするかもしれないことを

私たちは知る由もないからです。

 

私たちは神様に完全に依存して生きています。

私たちはこのお方を信頼していますか。

御自身の愛する御子のゆえに、

私たちは「このお方のもの」とされています。

このお方は私たちを

御子の尊い血によって買い取られた者として扱っておられます。

神様は私たちのことをこれまでも実によく面倒を見てこられたのですから、

終わりまで私たちの世話をしてくださることでしょう。

 

神様のお許しがないままに私たちの上に起こる出来事は何もありません。

神様は御自分を愛する者たちと共に働いて

万事を彼らの益となるようにしてくださるのです

(「ローマの信徒への手紙」828節より)。

 

(祈り)

私の魂よ、主に感謝しなさい。

私の内なるすべてのものよ、その聖なる御名に感謝しなさい。

私の魂よ、主に感謝しなさい。

そのすべての善き御業を忘れてはいけません。

主はあなたのすべての不義を赦し、

あなたのすべての病を癒してくださるのです。

(「詩篇」10313節)

(関連聖句)「詩篇」91

2025年11月7日金曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」4章42節より「私たちは自分自身で聴きました」

「私たちは自分自身で聴きました」

私たちが信じるのは、

もうあなたが話してくれたからではありません。

自分自身で聴いて、

このお方こそが真なる世の救い主であられることがわかったからです。 

(「ヨハネによる福音書」442節より)

 

責任感の欠如した生活を送ってきたある女の人が

イエス様と出会って自分の罪を悔い、

イエス様を救い主として受け入れました。


この女の人が救い主について証をするのを聴いて、

彼女の村の住人たちはイエス様の話を聴くために出かけました。

彼女の証が彼らをイエス様の御許へと導いたのですが、

今や彼ら自身もイエス様を信じるようになりました。


そしてその信仰は、

彼女がイエス様について彼らに話し聞かせたからであるというより、

むしろ「イエス・キリストこそが真に世の救い主である」

というイエス様御自身の言葉によって与えられたものであることを

彼らは公に告白しました。

 

「イエス・キリストこそが真に世の救い主である」

という確信を与えてくれるのは神様の御言葉だけです。

人間の信仰は、

それが説教者の話や人間の理解に基づくものであるかぎり、

確固とした基盤をもつものではありません。

信仰は

神様の御言葉そのものを基盤とする場合にのみ堅固なものとなるのです。

御言葉にしっかりと碇を下ろした信仰は崩れることがありません。

 

いまイエス様は栄光に輝く天国におられますが、

それと同時に私たちの只中にもおられるのです。

聖書の言葉はイエス様御自身の御言葉であり、

聖書を読む時に私たちはイエス様の御声を聴いています。


説教者の巧みさや熱心さなどは決して信仰の基盤にはなりえません。

御言葉において働かれる聖霊様だけが確信を与えてくださるのです。

信仰は人間の宗教性にではなく神様の力に基づいています。

 

御言葉を聴く時に私たちはイエス様を観ています。

このように福音は

たんに言葉としてではなく御言葉の中にある神様の力として

私たちのところにやってきます。

こうして信仰は成長し強められていくのです。

 

(祈り)

主よ、命を与えるあなたの御言葉を聴いて

その中に堅く留まることができるように、

どうか私たちを助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「ヨハネによる福音書」42842

2025年10月31日金曜日

「力なき者に力を」「フィリピの信徒への手紙」1章2節「真の平和と偽りの平和」

「真の平和と偽りの平和」

私たちの父なる神様と主イエス・キリストから

恵みと平和とがあなたがたにありますように。

(「フィリピの信徒への手紙」12節)

 

神様の恵みが私たちに平和をもたらしました。

イエス様の死を通して、私たちは神様と和解させていただきました。

神様が平和を創ってくださったのです。

福音とは、

愛してくださる神様の心への道を私たちに開いてくれる平和のメッセージです。

 

神様の平和を有している時、

私たちは自分にとって可能なかぎり、

すべての人と平和に生活するように励みます。

私たちは平和をつくる者になるのです。


神様の真理に抵触することでないかぎりは、

私たちは争いごとを巻き起こすよりも不公正を耐え忍ぶほうを選びます。


しかし神様の御言葉に関わる場合には、

外面的な平和を取り繕うために沈黙したり妥協したりはできません。


神様の御言葉に対して忠実であることは、

御言葉に反抗的な人々による偽りの平和をかき乱します。

 

神様の平和のみが疾しさのない良心を与えてくれます。

それは私たちの心と考えをキリスト・イエスにあって守ります。


平和のない生活の只中で、

イエス様は今なお私たちに次のように言っておられます。

 

「私は平和をあなたがたに残して行きます。

私の平和をあなたがたに与えます。

私が与えるのは世が与えるようなものとは異なります。

あなたがたは心を騒がせてはいけません。

またおじけてもいけません。」

(「ヨハネによる福音書」1427節)

 

家族の一人一人が神様と平和な関係にある家庭では

平和と愛が支配しています。

どこであれ、キリスト信仰者は

争いごとや妬みや憎しみや復讐を避けようとするものです。

 

(祈り)川を越えてバベルからいつか逃走するとき、

祖国で竪琴をかき鳴らし感謝の賛美をささげられるように助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「エフェソの信徒への手紙」21118

2025年10月27日月曜日

「力なき者に力を」「ヨハネの第一の手紙」1章7節「交わり」

「交わり」 

しかし、

神様が光の中にいるように

私たちも光の中を歩くならば、

私たちは互に交わりをもち、

この方の御子イエス様の血が

すべての罪から私たちをきよめます。 

(「ヨハネの第一の手紙」17節)

 

キリスト信仰者同士の交わりはとても大切です。

それはキリストにおける交わりです。

教義と信仰告白における交わりです。

このような交わりの中で真の友情が形作られていきます。

 

キリスト信仰者同士の交わりは神様からの尊い賜物です。

それが家族の中や複数の家族間で実現するとき、

「私たちは同じ信仰を持つ人々の集まりの中に入っている」

という実感が様々な形で強められていきます。


主イエス様の真の教会は

キリスト信仰者たちの一致団結に基づいて築かれます。

実のところ、

ルター派の信仰告白書(「ルーテル教会一致信条書」)に書いてあるように、

キリスト信仰者たちこそが「教会」なのです。  

 

キリスト信仰者は御言葉と聖礼典の力によってイエス様を信じて生きています。

彼らは互いに支え合い、悲しんでいる人を慰めます。

また、共に励まし、理解し、喜び、嘆きます。

彼らはまた互いに助言し合い、注意し合います。

 

不信仰な者たちとの交わりは人を罪に堕落させる危険をともないます。

間違った友人関係は人を神様の御言葉と救い主から引き離します。

御言葉を聴いても何も心に響かなくなります。

信仰と祈りに対して冷淡な態度をとるようになります。

この世的なものへの愛着が湧き出てきます。

しかし、それは神様に敵対することなのです。

この世の子らのよい友人になるくらいだったら、

ひとりきりになるほうがよっぽどましです。

しかしその一方で、

実の兄弟よりも忠実な友人たちも存在します。

そのような友人たちは神様からの賜物なのです。

 

(祈り)

主よ、

交わりについて、また信仰の兄弟姉妹についてあなたに感謝します。

どうかこの交わりの中で私が生きていけるようにお助けください。

そして、よいキリスト信仰者の友だちを私にお与えください。アーメン。

(関連聖句)「サムエル記上」1814