2024年11月15日金曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」10章42節「地を受け継ぐ柔和な人たち」

 「地を受け継ぐ柔和な人たち」

 

私の弟子であるという名のゆえに、

この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、

私はあなたがたに確言しますが、

決してその報いからもれることはありません。

(「マタイによる福音書」1042節)

 

勇気を持って立派に真理のために証した、

神様のために働いた人々のことを考えると、

私たちは自分のことをまったく役立たずのように感じてしまいがちです。

マリアのように正しく、

パウロのように一心不乱で、

ヨハネのように愛を持ち、

ルターのように勇気がある者に、

私などがどうしたらなれましょうか。

 

神様のために働いている人々の中には

「地を受け継ぐ柔和な人たち」(「マタイによる福音書」5章5節)、

周囲から少しも注目されない無名の人々もいることを

ここで思い起こしましょう。

彼らの奉仕の活動は神様の御前では大変高く評価されています。

神様は彼らの面倒を懇切丁寧に見てくださっているのです。

 

彼らは小さな事にも忠実な信仰者です。

日々、彼らは実にささやかなやりかたで主イエス様への愛を示してきました。

彼らはイエス様の中に彼らへの罪の赦しを見出しており、

「神様の子ども」としての霊をいただいているからです。

彼らは大きな贈り物をすることはできませんが、

奉仕することはできます。

彼らは静かに祈り、他の人々を励まします。

暖かい握手や小さな奉仕も

「天の御父様の報いからもれることがない、冷たい水一杯」の奉仕なのです。

 

「地を受け継ぐ柔和な人たち」、

神様の聖なる人々は

子どもの信仰をもっており、

キリストの愛を周りに広げていきます。

彼らは星のように輝く存在なのです。

 

(祈り)主イエス様、

一般の人々の目にはそれほど重要には見えない職務を

あなたが私に与えてくださる時にも

私があなたにへりくだり喜んでお仕えすることができるように、

どうか助けてください。アーメン。

(関連聖句)「マタイによる福音書」253440

2024年11月7日木曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」14章18節「あなたはひとりではありません」

「あなたはひとりではありません」

私はあなたがたを捨てて孤児にはしません。

あなたがたのところに帰って来ます。 

(「ヨハネによる福音書」1418節)

 

この世には孤独な人が大勢います。

大群衆の中にいると、ひときわ孤独感が強まります。

都会には誰からも相手にされない人たちがいます。

死の恐怖が孤独を生みます。

罪を犯した者はしばしば非常に孤独です。

周囲の人々から避けられるようになる場合にはいっそうそうなります。

試練や重責から来る孤独もあります。

結局のところ、神様と共に歩まない人は誰であれ孤独なのです。

 

イエス様も荒野で試みを受けられた時に孤独を経験なさいました。

ゲッセマネの園でイエス様はたったひとりで苦闘されました。

しかし、イエス様は弟子たちに

「私はあなたがたを捨てて孤児にはしません」

とたしかに約束してくださいました。

 

イエス様はゴルゴタで神様に見捨てられた時に

最悪の孤独を実際に体験することになりました。

その時にイエス様はたったひとりで世の罪を担われました。

まさにそのおかげで

私たちはどんな時でも孤独に捨ておかれなくて済むのです。

私たちは「イエス様のもの」として、

イエス様のそばにいることが許されているからです。

 

今、イエス様は「御自分のもの」である人々と共に

世の終わりまでいてくださいます。

イエス様は御言葉と聖礼典の中に本当に存在しておられます。

たとえ私たちが日常で孤独を感じている場合であっても、これはたしかなのです。

 

私たちは試みを受ける時、ひとりではありません。

自分の重荷を担う時にも、ひとりではありません。

ですから、悲しみのせいで泣いたりもしません。

病の床にある時も、ひとりではありません。

死の瞬間でさえも、イエス様はあなたと共にいて、

あなたを御許に引き寄せてくださいます。

そうしてあなたはイエス様がおられるところに

いつでもいることができるようになります。

 

(祈り)主イエス様、

あなたが私たちと共に日々いてくださることを感謝します。

あなたに頼りきって目的地に着けるように、

どうか私たちに話しかけ、私たちを支えてください。アーメン。

(関連聖句)「ヨハネによる福音書」141619

2024年11月1日金曜日

「力なき者に力を」「ヤコブの手紙」4章6節より「高慢の罪」

「高慢の罪」

神様は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜ります。

(「ヤコブの手紙」46節より)

 

人を高慢にする理由はたくさんあります。

人生で成功すること、偉大な才能を持っていること、

また出自の素晴らしさも人を高慢にしてきました。

とはいえ、自分が裕福だからといって高慢になるというのも不可解な話です。

人がこのようになりがちなのは、

自分が高慢になることを許してくれる何らかの「正当な理由」を探し出してくる、

あらゆる罪の根源であり腐敗である「生まれながらの罪」(原罪)が

人間の中に染み付いているからです。

 

高慢の罪の特徴は自分自身を他の人々の上に置こうとすることにあります。

これは「私には他の人々が持っていないような特別なものがあるから

私は他の人々よりも優れているのだ」という考えかたです。

 

高慢の罪は自分が神様から賜物をいただいているのを忘れることです。

私たちの成功や才能すべては神様からのものです。

高慢さは本来は神様からの賜物であるはずのものを

さも元々自分のものであるかのように不当に主張します。

 

高慢になった人はその次には罪に躓きます。

人は高慢になると自分自身や他の人たちの人生をだめにします。

自己満足が強まり、

自分が正しいと思い込み、

神様の恵みから引き離されてしまいます。

神様は高ぶる者をしりぞけるからです。

 

高慢さを崩してくれる唯一の原動力となるのは、

神様の御霊が人に与えてくださる罪の自覚です。

私たちの高慢さのゆえに、

イエス様は人としての苦しみを受けるために

御自分を低くしなければなりませんでした。

イエス様がこの世に来られたのは

人から奉仕を受けるためではなく、

すべての人のために御自分の命を差し出すためでした。

「私は柔和で心のへりくだった者ですから、

(中略)あなたがたは私から学びなさい」

とイエス様は言っておられます

(「マタイによる福音書」1129節より)。

 

(祈り)神様、

私が逆境の時に落ち込んだり順境の時に高ぶったりせずに、

あなたが私にくださるすべてによってあなたを敬えるように、

どうか私を助けてください。アーメン。

(関連聖句)「フィリピの信徒への手紙」2111

2024年10月28日月曜日

「力なき者に力を」「詩篇」25篇2節より「私の主」

「私の主」

私の神様、私はあなたに信頼します。

(「詩篇」252節より)

 

信仰を通して私たちには贖い主との絆があります。

キリストを信じる者は皆

「キリストは私を愛し、御自分を私のために渡された」

(「ガラテアの信徒への手紙」220節より)という確信を得ています。

この信仰の絆が私を救い主に非常に近しく結び付けるので

「私の愛する方は私のものであり、私はこの方のものです」

(「雅歌」216節より)と私は言うことができるのです。

 

私たちはイエス様をたんに知識として知っているのでしょうか、

それとも私たちの心はイエス様に結び付けられているでしょうか。

ここに大きな違いがあります。


キリストは死にました。

これは歴史です。


キリストは私のために死んでくださいました。

これは信仰です。


私たちは安心して

「イエス様は私の救い主であり、私はイエス様のものです」

と告白することができます。

J. A. Bengel という有名な神学者は祈りの中で

「そうです、神様、あなたと私を結びつけるのは今まで同様、この絆です」

と言ったそうです。

このような信仰が神様と手をつないで歩むように助けてくれます。

 

この個人的な信仰は

「主は私の牧者です。私には何も欠けることがありません」

(「詩篇」231節)と書いたときのダヴィデにもありました。

 

私が主のものであり主が私のものであるとき、私たちは大丈夫です。

聖なる洗礼を通して

永遠の契約を私たちと結んでくださった方は忠実を貫かれます。

この方は私に力をくださいます。

 

(祈り)三位一体なる神様、

私たちをあなたの義によって覆ってくださったイエス様、

活きた信仰へと私たちを新たに生んでくださった聖霊様、

私たちを御自分の子どもにしてくださった御父様、

どうかあなたの契約の中に私たちを保ってください。

そして私たちが死ぬまであなたに対して忠実でいられるように

どうか助けてください。アーメン。

(関連聖句)「ガラテアの信徒への手紙」3718

2024年10月24日木曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」6章6節より「神様と共に二人きりで」

「神様と共に二人きりで」

 

祈る時は自分の部屋に入り、戸を閉じて、

隠れておられるあなたの御父様に祈りなさい。

(「マタイによる福音書」66節より)

 

これは最愛の友の助言です。

イエス様は絶えずこのように実行なさったのです。

御父様と二人きりになって祈るために、

イエス様は弟子たちから身をお隠しになりました。

私たちの主は十字架の死にいたるまで

御父様の御旨に忠実を貫く力を得たのです。

今、イエス様は御自分に従う者たちに対しても

「祈る時は自分の部屋に入り、戸を閉じて、

隠れておられるあなたの御父様に祈りなさい」

と言っておられます。

 

あなたも神様と二人きりになれる場所を探してください。

たぶんあなたは自然の中で一人きりになれるでしょう。

自然を造られたお方があなたに耳を傾けてくださいます。

海辺でもあなたは神様と二人だけになれます。

神様は海を支配なさっていることを思い起こしてください。

また神様が私たちの罪を海の奥底に投げ込んでくださることを覚えましょう。

 

山に行って孤独の中に分け入りましょう。

山から「上」から助けが来ると

私たちに約束されていることを思い起こしましょう。

モーセと共に山に登り、約束の地を眺めてください。

 

毎日、部屋の戸を閉める時をもってください。

隠れておられる御父様はあなたに報いてくださいます。

あなたの周りには敵が多く、あなたには困難な任務と重い責任があります。

まさしくそれゆえに、神様と共に二人で過ごす時を毎日もつ必要があるのです。

神様が私たちに御言葉を通して語られ、

私たちが神様に祈りを通して心を打ち明ける時に、

この絆はいっそう深まります。

神様はイエス様のゆえに私たちを愛し赦してくださる御父様なのです。

 

(祈り)天の御父様、

いつでもあなたは私たちが祈ること以上のものを

喜んで与えてくださっています。

私たちが勇気をもって足繁く恵みの御座に通うことができるように、

どうか助けてください。アーメン。

(関連聖書)「マタイによる福音書」6513

2024年9月27日金曜日

「力なき者に力を」「ローマの信徒への手紙」8章17節「豊かな人生」

「豊かな人生」

もしも子であるならば、相続人でもあります。

私たちは神様の相続人として、

キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしているのですから、

キリストと共同の相続人でもあるのです。 

(「ローマの信徒への手紙」817節)

 

多くの人にとって人生は疲れる仕事の単調な繰り返しにすぎません。

どの日も似たようなものです。

いつも同じような仕事ばかりで、やる気を失います。

休みの日にもあまり変化がありません。

人生は単調で、死は怖いものに思えます。

 

イエス・キリストへの信仰の中で生きることが、この単調さを打ち破ります。

私たちは神様の子どもとして、

仕事も自由時間も、神様の栄光となるように活きていきたいと願います。

ささやかな生活環境の中で、ごく目立たないことがらにおいても、

私たちは天と地の主に仕えたいと望みます。

この考えかたはこの世の一般的な人生観を根本から揺るがすものであり、

日常生活にも輝きを添えてくれるものです。

 

そして死さえもが輝きを帯びてきます。

キリスト信仰者にとって死は永遠の命への扉だからです。

私たちは相続人なのです。

キリストと共同の相続人としてキリストの栄光を継ぐことができるのです。

これと比較するならば、

この世のあらゆる栄華は薄暗く、

見るに耐えないほど醜いものであるとさえ言えます。

 

神様の子どもたちにはこの世で多くの苦しみが伴います。

しかし彼らは使徒と共にこう言うのです、

「今の苦しみは、

やがて私たちに明らかにされることになる栄光に比べれば

取るに足りないものだと私はみなしています」

(「ローマの信徒への手紙」818節)。

 

(祈り)愛する天の御父様、

あなたが私たちを聖徒たちが光の中で受ける相続分にあずかるのに

ふさわしい者としてくださったことを感謝します。アーメン。

(関連聖句)「ローマの信徒への手紙」81418

 

2024年9月19日木曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」11章28節「重荷を負う者よ、来なさい」

「重荷を負う者よ、来なさい」

重荷を負って苦労している者は皆、ほらこちらに、私のもとに来なさい。

私があなたがたに休息を与えますから。

(「マタイによる福音書」1128節)

 

このような約束を与えることができるのはイエス様だけです。

イエス様以外の誰ひとり、

重荷を負うのにすっかり疲れている者を愛してはくれません。

イエス様以外の誰も、

失望や悲しみや恐れといった重荷を負うことはできません。

イエス様以外の誰も、

苦しみの最中にある人のことを理解できはしません。

 

イエス・キリストが私たちに休息を与えてくださるのです。

イエス様がこの世に来られたのは私たちに平和を与えるためでした。

イエス様は十字架で罪人たちの身代わりとして死なれました。

イエス様は私たちの良心をかき乱す罪を帳消しにしてくださいました。

イエス様はその血によって私たちをあがなってくださいました。

それゆえイエス様は今、

「私はあなたがたに休息を与えます」とはっきり言い切ることができるのです。

 

イエス様の中に、

罪の赦し、悲しみへの慰め、祈りへの答え、困難への解決があります。

それゆえイエス様は「私のもとに来なさい」と言われるのです。

イエス様は今も、

たくさん仕事をしている者、重荷を負っている者、疲れている者皆に対して

御許へ来るように呼びかけておられます。

そしてイエス様は休息を与えてくださいます。

 

この招きを聞くときに、

イエス様はすでに私たちのもとに来ておられるのです。

 

私たちはありのままの姿で、疲れてすっかりやる気をなくしている者として、

イエス様の善性と恵みとを自分のためにいただくことが許されています。

イエス様は御許に来る者を誰一人として見捨てることがありません。

イエス様はこう言われます、

「私は平和をあなたがたに残して行きます。

私の平和をあなたがたに与えます。

私があなたがたに与えるのは、世が与えるようなものとは異なります。

あなたがたは心を騒がせないように、また、おじけないように」

(「ヨハネによる福音書」1427節)。

 

(祈り)私の魂よ、あなたの休息のもとへと戻りなさい。

主はあなたのことをよく取り計らってくださったからです

(「詩篇」1167節)。アーメン。

(関連聖句)「詩篇」61