2025年6月26日木曜日

「力なき者に力を」「ルカによる福音書」15章24節より「再び見い出された者」

「再び見い出された者」

この私の息子は死んでいたのに生き返り、

いなくなっていたのに見つかったのですから。

(「ルカによる福音書」1524節より)

  

ある子どもが森で迷子になり、

しまいには草むらに眠り込んでしまいました。

父親がその子を見つけて抱き上げました。

「お父さん、やっと私を見つけてくれたんだね」

とその子は言いました。

 

私たちと神様との関係についても同じように考えることができます。

私たちはこの子どものような迷子です。

私たちは神様を探しています。

しかし、実は神様のほうこそ、私たちを捜しておられるのです。

私たちは神様を見つけられませんが、

神様のほうで私たちを見つけてくださるのです。

 

「あなたがたが私を選んだのではなく、

私があなたがたを選んだのです」

(「ヨハネによる福音書」1516節より)。

 

このことと関連してイエス様は「ルカによる福音書」15章で、

いなくなった羊と、なくなった銀貨と、放蕩息子についての譬を

語っておられます。

 

アダムとエバを楽園で捜された時以来、

神様は私たちのことも捜し続けてこられました。

父親の心は常に放蕩息子を捜していたのです。

お腹をすかせたこの放蕩息子はとうとう最後に、

「立って、父のもとへ帰ろう」(「ルカによる福音書」1518節より)

と言いました。

 

父親の善良さが放蕩息子を悔い改めへと導きます。

神様は憐れみ深いお方です。

魂を養う食べ物や、裸の恥を隠す衣服や、この世的な生きかたでは

決して知ることができない喜びを、

神様は私たちに賜るために用意してくださっています。

いなくなっていた者が見つかるとき、

天の御国の天使たちも一緒に喜ぶのです。

 

天の父なる神様の御許に戻ろうとせず、

イエス様よりもこの世のもののほうを愛している人々についても、

イエス様は語りかけておられます。

 

天の御父様が私たちを招待し待っておられるときに、

わたしは御許に行くのを躊躇しないようにしましょう。

天の御父様に

「私の子どもが再び戻ってきた」

という喜びをお返しいたしましょう。

 

(祈り)愛する天の父なる神様、

たとえ私たちが不実であっても、

あなたは忠実なお方です。

あなたの御許からもう迷い出ていかないように、

どうか私たちを助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「ルカによる福音書」151124

2025年6月13日金曜日

「力なき者に力を」「ペテロの第一の手紙」2章25節「羊飼いの声」

「羊飼いの声」

あなたがたは羊のようにさ迷っていましたが、

今はあなたがたの魂の牧者であり監督(ビショップ)である方の

御許に立ち戻ったのです。   

(「ペテロの第一の手紙」225節)

 

羊は臆病で自分の世話も満足にできない迷いがちな動物です。

羊には羊飼いが必要なのです。

「羊というものは多くの危険にさらされやすい」

と聖書は語っています。

私たちの「よい羊飼い」であるイエス様も

「羊は迷子になりやすい」と言っておられます。


私たちはまさしくそのような存在なのです。


たとえ目に見えるような大きな罪に落ち込まないとしても、

私たちは神様の律法の前では、

そのような罪に落ち込んだのと同様な罪人なのです。


罪が私たちの中に住まっていることを私たちは告白します。

 

私たちには羊飼いがおられます!


このお方は羊たちのために命を捨ててくださったのです。

このお方はさまよっている者を捜し求め、群れに戻してくださいます。

このお方は羊たちのことを知っており、それぞれ名前で呼んでくださるのです。

このお方は彼らを神様の御言葉と聖礼典によって

養い、訓育し、守り、救ってくださいます。

 

羊にとって一番大事なのは、自分の羊飼いの声を知ることです。


よい羊飼いの世話を受けているうちに、

羊飼いの声を聴き分けることができるようになっていきます。


神様の御言葉とは異なる声を聴くときに、イエス様の羊は逃げ去ります。

見知らぬ声に従うことはできないし、そのつもりもないからです。


もしも「よい羊飼い」なるイエス様の声を私たちが知らないのなら、

滅びがすぐそこまで来ていることになります。


「肥えたものと強いものとを私は滅ぼす」とよい羊飼いも言っておられます

(「エゼキエル書」3416節より。ヘブライ語原文からの私訳)。

「肥えた者と強い者」とは、

羊飼いの声にもはや耳を傾けようとはしない者たちのことです。


しかし、羊飼いは

「失われた者を捜し、迷い出た者を連れ戻し、

傷ついた者に包帯を巻き、衰弱した者を強くします」(同上)。

   

(祈り)よい羊飼いであられる主よ、

どうか私たちを御言葉と御霊によって導いてください。

アーメン。

(関連聖句)「ルカによる福音書」15110

2025年5月30日金曜日

「力なき者に力を」「フィリピの信徒への手紙」1章21節「試練の中で」

「試練の中で」 

私にとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益です。 

(「フィリピの信徒への手紙」121節)

 

キリスト信仰者は、

もうすでにこの恵みの時、この世の人生において、

たとえ万事が順調に運んでいる場合であっても、

「試練」の中におかれており、

主の使徒と共に次のように言います。


「私はこれら二つのものの間に板ばさみになっています。

この世を去ってキリストと共にいることを私は願っていますし、

その方がはるかに望ましいことです。

しかし、肉体にとどまっていることは、

あなたがたのためにはさらに必要なのです。」

(「フィリピの信徒への手紙」12324節)

 

現代では、

世界のキリスト教会のうちでその一部だけが実際の迫害の対象になっています。

キリスト教に対してある種の寛容さを示す国や社会もあります。

しかしこの「寛容さ」は、

世界が真のキリスト教に対して好意的になったからというよりも、

むしろキリスト教徒が

自らの信仰に関して熱意に欠けた曖昧な態度をとるようになり、

周囲との衝突を回避しているためなのかもしれません。

 

この世界にはキリスト教を憎悪している国家や人々が存在します。

こうした状況にあっても、

キリスト信仰者は主を信仰告白し、また隣り人に仕えます。

今日でも多くのキリスト信仰者が

その信仰のゆえに投獄されています。

また、多くのキリスト信仰者は

イエス様を自分の主と告白したために死ぬことになりました。


伝統的にキリスト教を国教としてきた国々においては、

迫害はもっと狡猾なやりかたで行われます。

不信仰な世界観が

「生と死」や「救いと滅び」に関する聖書の真理を揺るがそうとします。

大切なのは、

私たちにとって生きることはキリストであるということです。

その場合には、

私たちにとって死ぬことは益となるのです。

  

(祈り)

愛に満ちたあなたの御顔を私のほうへと向けてください。

私を投げ捨てず、あなたの恵みによって覆ってください。

イエス様、あなたは平和を与えてくださり、

天の御国の喜びへと運んでくださいます。アーメン。

(関連聖句)「ローマの信徒への手紙」1459

 

2025年5月22日木曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」9章4節「たった一つの命」

「たった一つの命」

 私たちは、私を遣わされたお方の御業を昼の間にしなければなりません。

夜が来ます。

すると誰も働けなくなります。

(「ヨハネによる福音書」94節)

 

イエス様にとって時は貴重なものでした。

すべての人間に関わる偉大な御業を成し遂げるために、

イエス様にはおよそ30年の時間しかなかったからです。


飼い葉桶でお生まれになった時から十字架で死なれる時に至るまでに、

イエス様は神様の御心を成就なさいました。

説教し、教え、苦しまれ、

すべての人間の救いのために死んでくださったのです。

 

「私は父の御業を行わなければならないのです」

とイエス様は言われました。

イエス様は与えられたすべての時間をまったく正しく使いきった後に

「成し遂げられた」

と言われました(「ヨハネによる福音書」1930節より)。


やるべきことでやらずじまいになったことは何一つありませんでした。

 

救い主は私たちに対しても

「夜が来ます。すると誰も働けなくなります」

と言っておられます。


人生の今この時が最も大切な時です。

「今は恵みの時、今は救いの日です」

(「コリントの信徒への第二の手紙」62節より)。


今日という日は、

働き、祈り、御国を築くために私たちに与えられているものです。

こうして私たちは注意して正しく時を用いることになります。


私たちを愛してくださり

私たちのために御自分を犠牲にされたイエス様に向けて、

私たちに与えられているこの時間を用いて生きて行くことにしましょう。

 

(祈り)主よ、私たちが日々を

あなたがくださった賜物と使命として受け取ることを教えてください。

空虚なことに時間を無駄使いしないようにどうか私たちをお守りください。

「私たちに自分の日々を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」

(「詩篇」9012節)。

(関連聖句)「コリントの信徒への第二の手紙」6110

2025年5月9日金曜日

「力なき者に力を」「コロサイの信徒への手紙」3章17節「イエス様の御名」

「イエス様の御名」

あなたがたのすることはすべて、

言葉によってであれ、行いによってであれ、

このお方を通して父なる神様に感謝しつつ、

いっさいを主イエスの御名によって行いなさい。

(「コロサイの信徒への手紙」317節)

 

古代エジプトのある建築家について次のような逸話が伝わっています。

彼はファラオの命令により、

当時の慣習に反してファラオの名前をピラミッドに刻みました。

しかしその際、彼は自分の名前を石のくぼんだところに刻み、

その上をモルタルで埋めた後で、

表面にファラオの名前を刻印したのです。

歳月が流れモルタルが剥がれ落ちると、

ピラミッドの建築家の名前が保存されたまま見つかりました。

一方、ファラオの名前は消えて忘れ去られました。

 

時が経つと共に世の栄華は消え去ります。

今日非常に高価なものでも明日にはもはや同じ価値を有してはいません。

しかし、イエス様の御名は決して消え去ることがありません。

 

イエス様の御名において、私たちには罪の赦しと永遠の義があります。

その御名によって、私たちは罪と死と地獄の力とに勝利します。

主の御名は強固な城であり、

義とされた者はそこへと馳せ急ぎ、守っていただけるのです。

 

この御名を信仰しつつ私たちが行ったり言ったりすることは、

決して消え去ることがありません。

神様の子どもたちは、あらゆる行いにおいてイエス様のことを覚えます。

例えば

「イエス様はこのことについて何と言われるだろうか」、

「イエス様は私がどのように活動するのを望んでおられるのか」

というように。


私たちはイエス様の御名を決して軽んじたくはありません。

すべてをイエス様の御名において行いましょう。

 

このように生きるとき、私たちは真理の中を歩んでいるのです。

 

(祈り)イエス様、

あなたの御名において私たちがすべてを行うようになさってください。

イエス様、私たちの日も夜もあなたの祝福の中において守ってください。

あなたの聖なる御言葉がどうか私たちの道の導き手となりますように。

アーメン。

(関連聖句)「ヨハネによる福音書」15712

2025年4月30日水曜日

「力なき者に力を」「サムエル記上」15章22節「従順の道」

「従順の道」

「主はその御言葉に聴き従う事を喜ばれるように

燔祭や犠牲を喜ばれるでしょうか。

見なさい、

従うことは犠牲にまさり、

聴くことは雄羊の脂肪にまさるのです。」

とサムエルは言いました。

(「サムエル記上」1522節)

 

神様はアマレク人とその持ち物を完全に滅ぼすように命じました。

ところが「主に犠牲の捧げ物にするため」という口実で、

サウル王は略奪品の中から最良の品々を取り分けました。


その時、サウルのもとに預言者サムエルが遣わされました。

それは、

サウルの行いが神様をないがしろにする罪であることを

サウルに思い起こさせるためでした。


サムエルが去ろうとして身をかえした時、

サウルがサムエルの上着のすそをとらえたので、それは裂けました。

その時サムエルはサウルに言いました、

「主は今日、あなたからイスラエルの王国を裂き、

もっと良いあなたの隣人に与えられた」。

 

自分の肉的な欲望に応じて、

私たちは神様の律法を緩くしたり、

さらには作り変えたりします。

神様との関係において自分に都合のよい妥協案を考えて、

結局はそれらが私たちの良心の善悪の感覚をすっかりだめにしてしまいます。

 

自分が行った罪や不正を

虚偽の「礼拝」によって取り繕うなら、

従順の道から外れてしまいます。

真理を語り不正を明らかにするべき時に沈黙する場合も、

同じことになります。

間違った教えや虚妄について沈黙するのは、

不従順であることと同じなのです。


私たちはイエス様の犠牲を無駄にしたくはありません。

 

(祈り)主よ、

あなたの御言葉を私の足の灯火とし、

それが輝く星として私の道を照らすようになさってください。

見えない私の目を開き、

弱い私の足を強め、

あなたの道を歩めるように手を取って導いてください。

アーメン。

(関連聖句)「サムエル記上」15122

2025年4月17日木曜日

「力なき者に力を」「詩篇」100篇2節「喜んでいる民」

「喜んでいる民」

喜びをもって主に仕えなさい。

歓喜の声と共に主の御前に来なさい。

(「詩篇」1002節)

 

喜びはキリスト教の信仰に特徴的なことです。

暗い考えや否定的な態度は

キリスト信仰者に関する正しいイメージではありません。

多くの苦しみの最中にありながらも喜んで生きていた人々について

新約聖書は証言しています。

 

「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。

繰り返して言うが、喜びなさい」

(「フィリピの信徒への手紙」44節)

と主の使徒は奨励しています。


イエス様を通して、

私たちは神様と仲直りさせていただけるし、

私たちの罪は赦されるのです。


イエス様の血を通して、

私たちは自分の成し遂げたこととはまったく無関係に、

このような者とみなしていただけます。


神様は私たちの面倒を実によく見てくださっているのです。

 

痛みや悲しみや苦悩や欠乏が私たちの上に重くのしかかるとき、

神様は私たちの

痛みを感謝に、

悲しみを喜びに、

苦悩を平安に、

欠乏を豊富さに

変えることができます。


「神様はあなたがたを世話してくださるのだから、

自分の心配事をすべて神様にゆだねなさい」

(「ペテロの第一の手紙」57節)。

 

人生での一番の心配事である「死」という問題もすでに解決されています。

イエス様が復活なさった後に残された空の墓は

死が取り去られたことを私たちに証しています。


命と朽ちないものとが福音を通して私たちのもとへ到来したのです。


イエス様を信じ続ける私たちは

今まで以上に困難な事柄にも向き合っていくことができるようになります。


「よくよく言っておきます。

もし人が私の言葉を守るならば、

その人は永遠に死を見ることがないでしょう」

(「ヨハネによる福音書」851節)。

 

救い主は、

私たちを御許に迎えて、

御自分がおられるところに私たちも一緒にいられるようにすると

約束してくださっています。

 

(祈り)主イエス様、

あなたが約束された全き喜びをどうか私たちにお与えください。

アーメン。

(関連聖句)「詩篇」100