2026年2月6日金曜日

「力なき者に力を」「コロサイの信徒への手紙」3章16節「心の歌」

「心の歌」

キリストの御言葉をあなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。

そして、あらゆる知恵をもって互いに教え訓戒し、

詩篇と讃美と霊的な歌によって感謝して心から神をほめたたえなさい。 

(「コロサイの信徒への手紙」316節)

 

全世界の音楽は歌を心に入れることができません。

しかし、キリストの御言葉が豊かに宿るところでは心が歌います。

 

キリスト信仰者の家庭では心が歌っています。

キリストの平和を心で体験した人たちは歌います。

 

神様の恵みは平和を与え、

あらゆる面で愛と喜びと忍耐と優しさと謙遜さと節度とを生み出します。

福音が与えるのは神様の御前で認証される義だけではありません。

福音は私たちを命の義へと導き、

神様の御手から一日一日を受け取る力をも私たちに与えてくれます。

 

それぞれの一日は神様からの賜物であることを知るとき、

心の中に歌が流れます。

そのおかげで、人生の逆風の中でも忍耐を保つことができるようになります。

 

私たちは神様が善き方であることを歌います。

神様は私たちに毎日生きていくために必要なものを与えてくださるからです。

とりわけ神様は御心を明らかにし、

イエス様の尊い贖いの御業のゆえに私たちの罪を赦してくださいます。

 

私たちは小羊の賛美歌を歌うことができます。

イエス様の血の力によって私たちは聖く義なる者とされているからです。

 

(祈り)愛する主よ、

キリストの御言葉が豊かに私たちの中に宿り、

私たちの心が新しい賛美歌を歌えるようにどうか助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「使徒言行録」23111

2026年1月29日木曜日

「力なき者に力を」「創世記」29章2節より「活きた水」

「活きた水」

彼(ヤコブ)が見ると、なんと野に井戸があったではありませんか。

(「創世記」292節より)

 

清涼な水のありがたみを知っているのは喉が渇いている者だけです。

ハランへの旅路で疲れ果て喉が渇いていたヤコブは井戸を見つけ、

その水を飲んで元気を取り戻すことができました。

 

清涼な水を感謝するべきです。

それがいつでも手に入るとは限らないからです。

しかし、このような水と比べて、

主の教会で神様の純粋な御言葉から湧き出る「活ける水」のほうを

私たちはより深く感謝するべきなのです。

信仰によってイエス様に避け所を求めるとき、

イエス様は「命の水」をくださいます。

それはイエス様の御名と血における罪の赦しです。

 

私たちキリスト信仰者には、

聖なる洗礼と主の聖餐を通して、

この活ける水、命と救いの水が分配されます。

 

「あなたがたは喜びをもって救いの井戸から水を汲みます」

(「イザヤ書」123節)。

 

「さあ、渇いている者は皆、水のもとに来なさい」

(「イザヤ書」551節より)。

 

「御霊も花嫁も言いました、「来なさい」。

また、聴く者も「来なさい」と言いなさい。

渇いている者はここに来なさい。

命の水を欲する者は価なしにそれを受け取りなさい」

(「ヨハネの黙示録」2217節)。

 

泉から水が湧き出る井戸だけが「よい井戸」なのです。

その井戸からは新鮮な水がなくなることがありません。

神様の恵みとはまさにそういうものです。

 

(祈り)聖霊様、

私を命の水の新鮮な泉へのもとへ連れて行ってください。

私の魂の焼け付くような渇きを癒す水を

私がいつも飲めるように助けてください。

明快に溌剌と私が渇いている人たちを皆、

この水のもとに招くことができるようにどうか助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「創世記」2914

2026年1月19日月曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」6章20節より 「嵐が静まる」

「嵐が静まる」

私です。恐れることはありません。

(「ヨハネによる福音書」620節より)

 

弟子たちが嵐の只中にいた時にイエス様は来てくださいました。

ところが、彼らはイエス様が水の上を歩いて近づいてくるのを見て

恐ろしくなり、叫びました。

その時、彼らは聞き慣れた声が「私です」と話しかけるのを聴きました。

恐怖は消え、嵐は止みました。

そして彼らは岸へと着きました。

 

イエス様を信じる人たちは今でもこのようなことを経験しています。

嵐が人生を脅かしています。

自分であがいてみてもどうにもなりません。

希望も消え失せます。

治療が難しい病気、身近な人の死、

気が滅入り窮乏する無職の状態などは

この困難な航海の一例です。

このようにキリスト信仰者は試練に直面します。

 

嵐の夜に、イエス様はやって来られます。

さまざまな試練を通して、主は

「私です。恐れることはありません」

と言ってくださいます。

私たちはその時に嵐が神様からのものであったことを理解します。

イエス様が共にいてくださることは

私たちの良心の呵責を鎮め、

私たちに罪の赦しによる平和をもたらします。

 

私たちは主の御声を聴きます。

人生でのいかなる嵐のような出来事も

決して偶然に起こるのではありません。

そこには主がおられます。

私を愛し御自分を私のためにささげてくださったお方が。

 

私たちが救い主に頼る大切さを学ぶために

苦しみは与えられるのです。

イエス様が「私のもの」になってくださっているのですから、

私は滅びはしません。

 

(祈り)嵐の夜に、

私(イエス様)はあなたのところに来て船に乗り込みます。

どよめく風を再び鎮めます。

私は天国の港へと船の舵を取ります。

私ははじめであり、おわりなのです。

(関連聖句)「ヨハネによる福音書」61521

2026年1月9日金曜日

「力なき者に力を」「ローマの信徒への手紙」1章20節より「自然、神様の聖所」

「自然、神様の聖所」 

神様の見えない性質、すなわち、神様の永遠の力と神性とは、

天地創造このかた被造物において知られていて明らかに認められるからです。 

(「ローマの信徒への手紙」120節より)

 

神様の造られたこの世界は

神様の力と知恵と栄光について私たちに教えてくれます。

 

私たちの救い主は山の上でしばしば夜を過ごされました。

人がイエス様と出会うのは自然の只中であることが多かったのです。

イエス様は湖のほとりに佇まれたり、

山や麦畑や空の鳥や野の花について話されたりしました。

イエス様は自然の教えを説明なさり、穀物や種の秘密を知っておられました。

 

私たちもまた水の畔や山や公園といった自然の中に休みや憩いを求めます。

私たちはそれらの中に全世界の創り主を見出しているでしょうか。

私たちは主のみわざを海や植物の美しさや風の音の中に認めているでしょうか。

神様が造られたこの世界の不思議な命の中に主の語りかけを聴き、

主が共におられることを感じ取っていますか。

きっとあなたはそれを見て聴いて不思議に思ったことがあるでしょう。

 

それでも、

聖書を通して主が個人的に語りかけてくださることを

あなたは必要としているのです。

子どもの素直な心をもつ者たちに対し、

御言葉を通して主は御自分を啓示なさいます。

主はイエス様においてその十字架を通して語りかけられ、

罪人たちに恵みを宣教なさいます。

イエス様が埋葬されたはずの墓が

三日目には空になっていたことが証しているように、

イエス様が死に勝って復活なさったことを主は語っておられます。

 

(祈り)主なる神様が語られる時、私はそれを聴き取る者でありたいです。

聴く耳と理解して受け入れる心とをどうか私にお与えください。アーメン。

(関連聖句)「詩篇」19