「なぜ?」
私たちは今、鏡に映して見るようにおぼろげに見ています。
しかしその時には、顔と顔とを合わせて見るようになるでしょう。
今、私は部分的に知っているだけです。
しかしその時には、私が完全に知られているのと同様に、
私は完全に知るようになるでしょう。
(「コリントの信徒への第一の手紙」13章12節)
人間はいつの時代にも、人生の意味を苦しみながら問いかけてきました。
なぜ人生は重苦しく、辛いのだろう?
なぜ不公平が公正に勝ってしまうのか?
なぜ子どもたちは苦しまなければならないのか?
なぜ戦争や飢饉や悲惨があるのか?
なぜ恐れたり孤独になったりしなければならないのか?
答えは得られません。
人は疑問を回避したり、一切のことを偶然や運命のせいにしたりします。
苦しみを与える疑問を心の奥に押し込めて、
過激な快楽、アルコールや麻薬その他などで気を紛らわせる人もいます。
私たちキリスト信仰者も答えを知りません。
しかし活ける神様が私たちへの答えであることは知っています。
それゆえ私たちは主を待ち望むのです。
この世では、私たちは鏡に映して見るようにおぼろげに見ています。
しかしあの世(天国)では、すべては明瞭に見えるようになり、
種々の疑問には最終的な答えが与えられます。
私たちの希望の基になっているのは、
キリストのうちにある神様の愛です。
私たちにはこの世には永住できる住い(都)がない、
とキリストは言われました(「ヘブライの信徒への手紙」13章14節より)。
基がしっかりしていて揺るぐことがない、来るべき住いを待ち望むように、
と私たちに教えてくださったのです。
私たちはこのことを今は希望として「見て」います。
しかし、すべてが実現して本当に見える時が来ると、
もはや「なぜ?」と聞く必要はなくなるのです。
(祈り)大いなる神様、あなたはすべてをよいように行ってくださいます。
ですから、解決できない謎を私たちはあなたにおゆだねいたします。
アーメン。
(関連聖句)「詩篇」70篇