2024年9月27日金曜日

「力なき者に力を」「ローマの信徒への手紙」8章17節「豊かな人生」

「豊かな人生」

もしも子であるならば、相続人でもあります。

私たちは神様の相続人として、

キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしているのですから、

キリストと共同の相続人でもあるのです。 

(「ローマの信徒への手紙」817節)

 

多くの人にとって人生は疲れる仕事の単調な繰り返しにすぎません。

どの日も似たようなものです。

いつも同じような仕事ばかりで、やる気を失います。

休みの日にもあまり変化がありません。

人生は単調で、死は怖いものに思えます。

 

イエス・キリストへの信仰の中で生きることが、この単調さを打ち破ります。

私たちは神様の子どもとして、

仕事も自由時間も、神様の栄光となるように活きていきたいと願います。

ささやかな生活環境の中で、ごく目立たないことがらにおいても、

私たちは天と地の主に仕えたいと望みます。

この考えかたはこの世の一般的な人生観を根本から揺るがすものであり、

日常生活にも輝きを添えてくれるものです。

 

そして死さえもが輝きを帯びてきます。

キリスト信仰者にとって死は永遠の命への扉だからです。

私たちは相続人なのです。

キリストと共同の相続人としてキリストの栄光を継ぐことができるのです。

これと比較するならば、

この世のあらゆる栄華は薄暗く、

見るに耐えないほど醜いものであるとさえ言えます。

 

神様の子どもたちにはこの世で多くの苦しみが伴います。

しかし彼らは使徒と共にこう言うのです、

「今の苦しみは、

やがて私たちに明らかにされることになる栄光に比べれば

取るに足りないものだと私はみなしています」

(「ローマの信徒への手紙」818節)。

 

(祈り)愛する天の御父様、

あなたが私たちを聖徒たちが光の中で受ける相続分にあずかるのに

ふさわしい者としてくださったことを感謝します。アーメン。

(関連聖句)「ローマの信徒への手紙」81418

 

2024年9月19日木曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」11章28節「重荷を負う者よ、来なさい」

「重荷を負う者よ、来なさい」

重荷を負って苦労している者は皆、ほらこちらに、私のもとに来なさい。

私があなたがたに休息を与えますから。

(「マタイによる福音書」1128節)

 

このような約束を与えることができるのはイエス様だけです。

イエス様以外の誰ひとり、

重荷を負うのにすっかり疲れている者を愛してはくれません。

イエス様以外の誰も、

失望や悲しみや恐れといった重荷を負うことはできません。

イエス様以外の誰も、

苦しみの最中にある人のことを理解できはしません。

 

イエス・キリストが私たちに休息を与えてくださるのです。

イエス様がこの世に来られたのは私たちに平和を与えるためでした。

イエス様は十字架で罪人たちの身代わりとして死なれました。

イエス様は私たちの良心をかき乱す罪を帳消しにしてくださいました。

イエス様はその血によって私たちをあがなってくださいました。

それゆえイエス様は今、

「私はあなたがたに休息を与えます」とはっきり言い切ることができるのです。

 

イエス様の中に、

罪の赦し、悲しみへの慰め、祈りへの答え、困難への解決があります。

それゆえイエス様は「私のもとに来なさい」と言われるのです。

イエス様は今も、

たくさん仕事をしている者、重荷を負っている者、疲れている者皆に対して

御許へ来るように呼びかけておられます。

そしてイエス様は休息を与えてくださいます。

 

この招きを聞くときに、

イエス様はすでに私たちのもとに来ておられるのです。

 

私たちはありのままの姿で、疲れてすっかりやる気をなくしている者として、

イエス様の善性と恵みとを自分のためにいただくことが許されています。

イエス様は御許に来る者を誰一人として見捨てることがありません。

イエス様はこう言われます、

「私は平和をあなたがたに残して行きます。

私の平和をあなたがたに与えます。

私があなたがたに与えるのは、世が与えるようなものとは異なります。

あなたがたは心を騒がせないように、また、おじけないように」

(「ヨハネによる福音書」1427節)。

 

(祈り)私の魂よ、あなたの休息のもとへと戻りなさい。

主はあなたのことをよく取り計らってくださったからです

(「詩篇」1167節)。アーメン。

(関連聖句)「詩篇」61

2024年9月6日金曜日

「力なき者に力を」「コリントの信徒への第一の手紙」13章12節「なぜ?」

「なぜ?」

私たちは今、鏡に映して見るようにおぼろげに見ています。

しかしその時には、顔と顔とを合わせて見るようになるでしょう。

今、私は部分的に知っているだけです。

しかしその時には、私が完全に知られているのと同様に、

私は完全に知るようになるでしょう。 

(「コリントの信徒への第一の手紙」1312節)

 

人間はいつの時代にも、人生の意味を苦しみながら問いかけてきました。

なぜ人生は重苦しく、辛いのだろう?

なぜ不公平が公正に勝ってしまうのか?

なぜ子どもたちは苦しまなければならないのか?

なぜ戦争や飢饉や悲惨があるのか?

なぜ恐れたり孤独になったりしなければならないのか?

 

答えは得られません。

人は疑問を回避したり、一切のことを偶然や運命のせいにしたりします。

苦しみを与える疑問を心の奥に押し込めて、

過激な快楽、アルコールや麻薬その他などで気を紛らわせる人もいます。

 

私たちキリスト信仰者も答えを知りません。

しかし活ける神様が私たちへの答えであることは知っています。

それゆえ私たちは主を待ち望むのです。

この世では、私たちは鏡に映して見るようにおぼろげに見ています。

しかしあの世(天国)では、すべては明瞭に見えるようになり、

種々の疑問には最終的な答えが与えられます。

 

私たちの希望の基になっているのは、

キリストのうちにある神様の愛です。

私たちにはこの世には永住できる住い(都)がない、

とキリストは言われました(「ヘブライの信徒への手紙」1314節より)。

基がしっかりしていて揺るぐことがない、来るべき住いを待ち望むように、

と私たちに教えてくださったのです。

私たちはこのことを今は希望として「見て」います。

しかし、すべてが実現して本当に見える時が来ると、

もはや「なぜ?」と聞く必要はなくなるのです。

 

(祈り)大いなる神様、あなたはすべてをよいように行ってくださいます。

ですから、解決できない謎を私たちはあなたにおゆだねいたします。

アーメン。

(関連聖句)「詩篇」70

2024年9月2日月曜日

「力なき者に力を」「ローマの信徒への手紙」5章8節「人間とは何か?」

「人間とは何か?」

 

私たちがまだ罪人であった時、

私たちのためにキリストが死んでくださったことによって、

神様は私たちに対する御自分の愛を示してくださいました。

(「ローマの信徒への手紙」58節)

 

私たちの生きている現代の人間には

「自分とは何か」という認識が欠けています。

この世は一見賢そうな答えを提示しますが、その答えはまちがっています。

「人間は物質的や官能的な欲求を満たすために生きている動物である」

などと言われることがあります。

また「理性を持つ存在として人間は元来よい存在であり、

自分やこの世界の問題を解決する力ももっている」といった主張もなされます。

 

実に恐ろしい回答です!

やみくもにそれらに追従すると、せっかくの人生が台無しになってしまいます。

 

唯一の正しい道は、神様御自身が提示なさっている回答に立ち帰ることです。

それは次に述べるように明瞭な回答なのです。


私たちは罪人です。

しかし、そのような私たちを神様は

御子の血の犠牲によってあがなってくださったのです。

最初の人間の罪の堕落により私たちが失った

「神様の似姿」という人間の本来の姿は、

洗礼と聖霊様によって全く新しくされて、

すでにこの人生においても部分的には修復されます。

しかしそれが完全に回復するのは、

キリスト信仰者が栄光の中でイエス様に似た者とされる復活においてです。

 

宗教改革者ルターによれば、

まさしく私たちが「キリストのもの」となるために、

キリストは私たちを罪と死と悪魔の支配とからあがないだしてくださいました。

そしてこれこそが「人間」に関わる真理なのです。

  

(祈り)主よ、私たちが自分自身を「真実の姿」として、

すなわち、あなたにお仕えしながら天国の我が家へと旅を続けている、

あがなわれた罪人、義とされた神様の子どもとして

正しく見ることができるようにどうか助けてください。アーメン。

(関連聖句)「ローマの信徒への手紙」5111