2024年7月25日木曜日

「力なき者に力を」「コリントの信徒への第一の手紙」15章26節「最後の敵」

「最後の敵」

最後の敵として滅ぼされるのが、死です。 

(「コリントの信徒への第一の手紙」1526節)

 

説教壇に上がったある牧師は

「これから私は聴き手の皆さんが聞きたくない説教をします」

と前置きして話し始めたそうです。

そして彼は死について説教しました。

 

その牧師は正しかったと言えます。

私たちのうちの多くは「死」という言葉さえ聞きたがりません。

死は恐れられ、嫌悪されています。

人々は死をめぐる考えから逃れようとします。

死は現代社会からほとんど排除されています。

葬列はとうの昔に町の光景から姿を消しました。

葬儀会社が人目を引かないかたちで万事を執り行うようになっています。

 

しかし避けられないことを避けるのは不可能です。

「自分もいつかは死ぬ」という事実から目をそらしている私たちは

茂みに頭を突っ込んでいるウサギのようなものです。

 

主イエス様は「私は死と地獄の鍵をもっています」

(「ヨハネの黙示録」118節より)、

また「私は復活であり、命です」

(「ヨハネによる福音書」1125節より)、

さらに「私は活きているので、あなたがたも活きることになります」

(「ヨハネによる福音書」1419節より)

と確言なさっています。

 

死の墓は私たちキリスト信仰者を永久に閉じ込めておくことができません。

「私をあがなう方は生きておられ、最後の日に必ず土の上に立たれることを、

私は知っています」(「ヨブ記」1925節)

とヨブとともに私たちも言うことができます。

た主の使徒パウロは

「ですから、あなたがたはこれらの言葉をもって互いに慰め合いなさい」

(「テサロニケの信徒への第一の手紙」418節)

と言っています。

 

(祈り)

キリストは私たちの受けるべき裁きを身代わりに苦しんでくださいました。

死によって死に勝利なさったのです。

この主の愛に驚嘆しようではありませんか。

キリストは復活なさったのです!

アーメン。

(関連聖句)「コリントの信徒への第一の手紙」151220

2024年7月22日月曜日

「力なき者に力を」「ヨハネの第一の手紙」2章17節「後に残るものは?」

「後に残るものは?」 

世とその欲とは過ぎ去ります。

しかし、神様の御旨を行う者は永遠にとどまり続けます。 

(「ヨハネの第一の手紙」217節)

 

ある富裕な人の土地が豊かな実を結びました。

新しい大きな倉庫はいっぱいになり、

彼は「もう安心だ」と思い込んで暮らしていました。

ところが突然の死が訪れて、

彼は神様の御前に出なければならなくなりました。

主は彼にたずねました、

「あなたが用意した物は、誰のものになるのですか」

(「ルカによる福音書」1220節より)。

 

この世を去る時、私たちにはいったい何があるでしょうか。

何を一緒に持って行けるのでしょうか。

地元の名士が死んだ時、

「彼は何を遺して行ったのだろう」と人々はささやき合いました。

その答えはなんと「全部」でした。

 

私たちに与えられている時間は短いです。

この世を去る時がくれば、

大国に10万発の核兵器があるかないかなどは何の意味もなくなります。

どのくらい私たちの銀行口座に預金が残っているか、

私たちの邸宅がどれほど素晴らしいものか、

私たちがいかなる名声を博しているか、

私たちの墓前で生前の私たちについて参列者がどのようなスピーチをするのか、

といったことは私自身とは何の関係もなくなります。

 

表現できないほど大きな意味をもつのは、

私がイエス様を罪人の救い主として知っていたかどうかという点に限られます。

 

私はイエス様のために生きてきましたか。

神様の愛は聖霊様を通して私の心の中に注がれていましたか。

救い主への純真な信仰をもって私は死の眠りに就くのでしょうか。

意味があるのはこれがすべてです。

「世とその欲とは過ぎ去ります。

しかし、神様の御旨を行う者は永遠にとどまり続けます」。

 

(祈り)

私のこの世での命はしだいに終わりに近づいてきています。

この世的な喜びは影のようなものにすぎません。

この世には永続するものは何一つありません。

主よ、あなただけが私のもとにとどまり続けてくださるのです。

アーメン。

(関連聖句)「ヨハネの第一の手紙」21525

2024年7月5日金曜日

「力なき者に力を」「ヨハネの黙示録」5章9節より「三重の意味でこのお方のものとなる」

「三重の意味でこのお方のものとなる」

あなたはほふられ、その血によって、

あらゆる部族、国語、民族、国民の中から

人々を神様のために買い取ってくださったのです。

(「ヨハネの黙示録」59節より)

 

少年が自分で作った小舟を川に浮かべたところ、

その小舟は水に流されて少年の目の前から消えていきました。

その後しばらくして、彼はそれを骨董品店で見つけ、買い取りました。

自分の作ったおもちゃの小舟を大事そうにかかえて彼はこう言いました、

「さあ、今や君は二重の意味で僕のものになったよ。

僕がはじめに君を作ったのだし、今度は君を買い取ったのだから」。

 

神様は私たちを見つめてあたかもこう言われているかのようです、

「私はあなたを造りました。

あなたは私のものです。

私はさらに他のことも行いました。

あなたが道に迷った時、

私はわが一人息子の血によってあなたを買い取ったのです。

こうしてあなたは二重に私のものとなりました」。

 

「実はこれですべてではありません。

私はあなたをあがなったのに、

あなたは私のものでありたいと思わなかったのです。

あなたは私を救い主として信じることができなかったし、

そうしたくもなかったのです。

しかし私の御霊が洗礼と福音を通してあなたを信仰へと導きました。

私はあなたを新たに生み、あなたに相続権を与えました。

こうしてあなたは三重の意味で私のものとなったのです。」

 

神様は私たちを見つめてこう言われています。

 

皆それぞれ自分の胸に聞いてみなさい、

「神様を見つめる時、私は何と言うのだろう」、と。

  

(祈り)

イエス様が私を見つけてくださった救いの日を私は思い出します。

私は罪のために裁かれていたのです。

そのような私をイエス様は、

悲惨な状況から抱き起こして肩に乗せ、

御自分のものとしてくださいました。アーメン。

(関連聖句)「ヨハネの黙示録」5914