「今」
今の時[1]を活用しなさい。悪い時代だからです。
(「エフェソの信徒への手紙」5章16節)
地球の発展の歴史を壁時計の12時間で表すとすれば、
私たちの今生きている時代は12時数分前に当たるだろう、
と言われることもあります。
この比喩は
私たちに与えられている恵みの時の短さを思い起こさせるものでもあります。
私たちの時はもうあまり残っていません。
イエス様のたとえの中に出てくる、
だらしない生活をしている裕福な男の人に対して神様は
「愚かな者よ、あなたの魂は今夜取り去られる」
(「ルカによる福音書」12章20節より)と言われましたが、
それと同じことを神様は私たちに対してもおっしゃっているのです。
毎瞬ごとに私たちは神様の裁きの御座の前に連れて行かれます。
ですから「今の時を活用しなさい」。
聖書は時間の貴重さを強調しています。
時間は神様からの大いなる賜物です。
それが消えていくのを傍観しつつ手をこまねいて見ていてはいけません。
時間は静かに、しかし速やかに、永遠の海へと消えていきます。
一瞬でも遅れれば、列車には間に合わなくなります。
手遅れになった応急処置も役には立ちません。
恵みの時の中にいる間に(すなわち、まだこの世で生きている間に)
罪を悔いてイエス様を信じる信仰をなおざりにするならば、
一切の希望はすでに失われているのです。
「見なさい、今は神様に受け入れていただける恵みの時、
見なさい、今は救の日です 」
(「コリントの信徒への第二の手紙」6章2節より)。
どうして私たちは取り残されてよいものでしょうか。
どうしてそれほど重要ではないことのために貴重な時間を使っているのですか。
私たちに残されている時間はわずかなのです。
(祈り)主イエス様、あなたの再臨の瞬間まで、
私たちを「非難されるところのない者」として整えてください。
イエス様、あなたが来られる時に私たちが怠惰になっていないように、
どうか助けてください。アーメン。
(関連聖句)「マタイによる福音書」24章36~51節
[1] 「今の時」と訳した原語はギリシア語では「カイロス」で、
たんなる物理的な時間(これは「クロノス」と言います)ではなく、
人を救うために神様が定められたある特定の大切な時点や瞬間のことを指しています。