2025年5月30日金曜日

「力なき者に力を」「フィリピの信徒への手紙」1章21節「試練の中で」

「試練の中で」 

私にとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益です。 

(「フィリピの信徒への手紙」121節)

 

キリスト信仰者は、

もうすでにこの恵みの時、この世の人生において、

たとえ万事が順調に運んでいる場合であっても、

「試練」の中におかれており、

主の使徒と共に次のように言います。


「私はこれら二つのものの間に板ばさみになっています。

この世を去ってキリストと共にいることを私は願っていますし、

その方がはるかに望ましいことです。

しかし、肉体にとどまっていることは、

あなたがたのためにはさらに必要なのです。」

(「フィリピの信徒への手紙」12324節)

 

現代では、

世界のキリスト教会のうちでその一部だけが実際の迫害の対象になっています。

キリスト教に対してある種の寛容さを示す国や社会もあります。

しかしこの「寛容さ」は、

世界が真のキリスト教に対して好意的になったからというよりも、

むしろキリスト教徒が

自らの信仰に関して熱意に欠けた曖昧な態度をとるようになり、

周囲との衝突を回避しているためなのかもしれません。

 

この世界にはキリスト教を憎悪している国家や人々が存在します。

こうした状況にあっても、

キリスト信仰者は主を信仰告白し、また隣り人に仕えます。

今日でも多くのキリスト信仰者が

その信仰のゆえに投獄されています。

また、多くのキリスト信仰者は

イエス様を自分の主と告白したために死ぬことになりました。


伝統的にキリスト教を国教としてきた国々においては、

迫害はもっと狡猾なやりかたで行われます。

不信仰な世界観が

「生と死」や「救いと滅び」に関する聖書の真理を揺るがそうとします。

大切なのは、

私たちにとって生きることはキリストであるということです。

その場合には、

私たちにとって死ぬことは益となるのです。

  

(祈り)

愛に満ちたあなたの御顔を私のほうへと向けてください。

私を投げ捨てず、あなたの恵みによって覆ってください。

イエス様、あなたは平和を与えてくださり、

天の御国の喜びへと運んでくださいます。アーメン。

(関連聖句)「ローマの信徒への手紙」1459

 

2025年5月22日木曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」9章4節「たった一つの命」

「たった一つの命」

 私たちは、私を遣わされたお方の御業を昼の間にしなければなりません。

夜が来ます。

すると誰も働けなくなります。

(「ヨハネによる福音書」94節)

 

イエス様にとって時は貴重なものでした。

すべての人間に関わる偉大な御業を成し遂げるために、

イエス様にはおよそ30年の時間しかなかったからです。


飼い葉桶でお生まれになった時から十字架で死なれる時に至るまでに、

イエス様は神様の御心を成就なさいました。

説教し、教え、苦しまれ、

すべての人間の救いのために死んでくださったのです。

 

「私は父の御業を行わなければならないのです」

とイエス様は言われました。

イエス様は与えられたすべての時間をまったく正しく使いきった後に

「成し遂げられた」

と言われました(「ヨハネによる福音書」1930節より)。


やるべきことでやらずじまいになったことは何一つありませんでした。

 

救い主は私たちに対しても

「夜が来ます。すると誰も働けなくなります」

と言っておられます。


人生の今この時が最も大切な時です。

「今は恵みの時、今は救いの日です」

(「コリントの信徒への第二の手紙」62節より)。


今日という日は、

働き、祈り、御国を築くために私たちに与えられているものです。

こうして私たちは注意して正しく時を用いることになります。


私たちを愛してくださり

私たちのために御自分を犠牲にされたイエス様に向けて、

私たちに与えられているこの時間を用いて生きて行くことにしましょう。

 

(祈り)主よ、私たちが日々を

あなたがくださった賜物と使命として受け取ることを教えてください。

空虚なことに時間を無駄使いしないようにどうか私たちをお守りください。

「私たちに自分の日々を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」

(「詩篇」9012節)。

(関連聖句)「コリントの信徒への第二の手紙」6110

2025年5月9日金曜日

「力なき者に力を」「コロサイの信徒への手紙」3章17節「イエス様の御名」

「イエス様の御名」

あなたがたのすることはすべて、

言葉によってであれ、行いによってであれ、

このお方を通して父なる神様に感謝しつつ、

いっさいを主イエスの御名によって行いなさい。

(「コロサイの信徒への手紙」317節)

 

古代エジプトのある建築家について次のような逸話が伝わっています。

彼はファラオの命令により、

当時の慣習に反してファラオの名前をピラミッドに刻みました。

しかしその際、彼は自分の名前を石のくぼんだところに刻み、

その上をモルタルで埋めた後で、

表面にファラオの名前を刻印したのです。

歳月が流れモルタルが剥がれ落ちると、

ピラミッドの建築家の名前が保存されたまま見つかりました。

一方、ファラオの名前は消えて忘れ去られました。

 

時が経つと共に世の栄華は消え去ります。

今日非常に高価なものでも明日にはもはや同じ価値を有してはいません。

しかし、イエス様の御名は決して消え去ることがありません。

 

イエス様の御名において、私たちには罪の赦しと永遠の義があります。

その御名によって、私たちは罪と死と地獄の力とに勝利します。

主の御名は強固な城であり、

義とされた者はそこへと馳せ急ぎ、守っていただけるのです。

 

この御名を信仰しつつ私たちが行ったり言ったりすることは、

決して消え去ることがありません。

神様の子どもたちは、あらゆる行いにおいてイエス様のことを覚えます。

例えば

「イエス様はこのことについて何と言われるだろうか」、

「イエス様は私がどのように活動するのを望んでおられるのか」

というように。


私たちはイエス様の御名を決して軽んじたくはありません。

すべてをイエス様の御名において行いましょう。

 

このように生きるとき、私たちは真理の中を歩んでいるのです。

 

(祈り)イエス様、

あなたの御名において私たちがすべてを行うようになさってください。

イエス様、私たちの日も夜もあなたの祝福の中において守ってください。

あなたの聖なる御言葉がどうか私たちの道の導き手となりますように。

アーメン。

(関連聖句)「ヨハネによる福音書」15712