2025年11月28日金曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」18章21節より「赦しなさい」

「赦しなさい」

主よ、

兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度赦さねばなりませんか。

七度までですか。

(「マタイによる福音書」1821節より)

 

罪深い者として私たちは

日々イエス様の救いの御業に守りを求めて逃げ込みます。

そして、憐れみ深い神様は

毎日イエス様のゆえに私たちの罪を赦してくださいます。

 

隣り人が私たちに対して罪を犯す時、

私たちは心からその人を赦しているでしょうか。


「赦す」と口ではよく言うものの、

実際には赦していないことがあります。


私たちは隣り人の罪を覚えていて、

さらにはそれについて他の人にも話しさえします。


例えば、再び喧嘩になると今までの喧嘩の内容も全部蒸し返されます。


人間とはそういうものです。


私たちは他の人の罪をしつこく覚えているくせに、

自分の罪はすっかり忘れてしまうのです。

 

ペテロは「自分は十分憐れみ深い」と考えていたことでしょう。

七回までも相手の罪を赦すことにしたからです。


当時の理解によれば、三回も罪を赦せば十分であるとされていました。


イエス様のお答えにある「77度」(あるいは770倍)は

「絶えざる罪の赦し」を意味しています。

この罪の赦しには制限も条件もありません。

まさしくこのように神様は罪を赦してくださったし、赦してくださるのです。


このことは私たちを慰めると同時に恥じ入らせもします。

私たちも同じように行うべきだからです。


また、私たちの隣り人も私たちの犯した罪を赦さなければならないのであり、

その量たるや、

私たちが赦すべき隣り人の犯した罪の量と同じくらいか、

あるいはおそらくそれ以上にのぼることでしょう。

 

(祈り)神様、

恵みの王座の御前で私たちがあなたに近づくことが許されていることを

あなたに感謝します。

また、あなたは罪の赦しを豊かに与えてくださいます。

そのことについても感謝します。

私たちに対して罪を犯した者たちを

私たちが心から赦すことができるように

どうか助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「コロサイの信徒への手紙」31217

2025年11月17日月曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」5章46節「もっと愛しなさい」

「もっと愛しなさい」 

あなたがたを愛する者たちをあなたがたが愛したとしても、

なんの報いがありましょうか。

取税人たちもそれと同じことをしているではないですか。 

(「マタイによる福音書」546節)

 

キリスト信仰者はすべてに関して世の子らよりも多くのよい行いをし、

またよりよい生きかたをしなければならないのでしょうか。

キリストを信じていない人が

「自分はキリスト教徒と同じようによい人間である」と言い切る場合に、

むしろキリスト信仰者のほうにこそ

反省すべき課題があるということになるのでしょうか。

 

救い主は御言葉を通してまさにこのことに言及しておられるのです。

もしも私たちが自分らを愛してくれる人々だけを愛するのなら、

私たちのその愛は「交換し合う商品」のようなものではありませんか。

「私はあなたに、そしてあなたは私にあげます。これでおあいこですね」

といった具合にです。

しかし、これは愛の見せかけを装った利己主義にすぎません。

 

キリスト信仰者の愛は、

神様の御子が私たちのために死んでくださった十字架から、

その力を得ています。

神様はその独り子をお与えになるほど、

この惨めな世を深く愛してくださいました。

しかも、人間のほうからのお返しの愛を受けることがなかったのです。

ここにキリスト教の愛の模範と力があります。

あなたの愛の行いに対して、

相手からは何の報いも見返りも期待するべきではありません。

感謝されることさえ期待するべきではないのです。

それゆえ、

私たちは神様の御許から真っ先に溢れてくる愛の源泉のすぐ近くに

常に留まっている必要があります。

 

(祈り)

愛そのものなる主よ、

あなたは十字架で罪人たちのために死んでくださいました。

愛する主よ、

あなたは天の御国の救いそのものです。

愛する主よ、

あなたはこの救いを他の全ての人々にも整えてくださいました。

愛なる主よ、

私は自分自身を永遠にあなたにささげます。

アーメン。

(関連聖句)「コリントの信徒への第一の手紙」13

2025年11月13日木曜日

「力なき者に力を」「詩篇」36篇8節「このお方の守りの中で」

「このお方の守りの中で」

神様、あなたの憐れみはいかに尊いことでしょう。

人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得ます。

(「詩篇」368節)

 

私たちは不平を言うのに慣れすぎています。

感謝の心を持って一日を過ごすのは稀です。

自分に何が欠けているかばかりを考えて、

毎日いただいている恵みと祝福のありがたみを忘れています。

心の安らぎのない時には、

神様が私たちに必要な日用の糧のすべてを満たしてくださっていることを

思い起こしません。

イエス様が十字架の死によって

私たちを罪と死からあがなってくださったことも忘れています。

 

日々、私たちは罪の赦しを受け取ることが許されており、

恐れを抱かずに、天の御父様の御前でゆったりくつろいでよいのです。

 

神様は私たちを御自分の翼のかげに覆い隠されることで毎日守っておられます。

このことについて私たちは感謝するべきです。

 

せわしないこの世で、毎時、毎瞬、私たちは危険にさらされ続けています。

たとえ朝に家を出る時には健康であった場合でも、

その同じ夜には体が不自由になっていたり、

あるいは死んでしまったりするかもしれないことを

私たちは知る由もないからです。

 

私たちは神様に完全に依存して生きています。

私たちはこのお方を信頼していますか。

御自身の愛する御子のゆえに、

私たちは「このお方のもの」とされています。

このお方は私たちを

御子の尊い血によって買い取られた者として扱っておられます。

神様は私たちのことをこれまでも実によく面倒を見てこられたのですから、

終わりまで私たちの世話をしてくださることでしょう。

 

神様のお許しがないままに私たちの上に起こる出来事は何もありません。

神様は御自分を愛する者たちと共に働いて

万事を彼らの益となるようにしてくださるのです

(「ローマの信徒への手紙」828節より)。

 

(祈り)

私の魂よ、主に感謝しなさい。

私の内なるすべてのものよ、その聖なる御名に感謝しなさい。

私の魂よ、主に感謝しなさい。

そのすべての善き御業を忘れてはいけません。

主はあなたのすべての不義を赦し、

あなたのすべての病を癒してくださるのです。

(「詩篇」10313節)

(関連聖句)「詩篇」91

2025年11月7日金曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」4章42節より「私たちは自分自身で聴きました」

「私たちは自分自身で聴きました」

私たちが信じるのは、

もうあなたが話してくれたからではありません。

自分自身で聴いて、

このお方こそが真なる世の救い主であられることがわかったからです。 

(「ヨハネによる福音書」442節より)

 

責任感の欠如した生活を送ってきたある女の人が

イエス様と出会って自分の罪を悔い、

イエス様を救い主として受け入れました。


この女の人が救い主について証をするのを聴いて、

彼女の村の住人たちはイエス様の話を聴くために出かけました。

彼女の証が彼らをイエス様の御許へと導いたのですが、

今や彼ら自身もイエス様を信じるようになりました。


そしてその信仰は、

彼女がイエス様について彼らに話し聞かせたからであるというより、

むしろ「イエス・キリストこそが真に世の救い主である」

というイエス様御自身の言葉によって与えられたものであることを

彼らは公に告白しました。

 

「イエス・キリストこそが真に世の救い主である」

という確信を与えてくれるのは神様の御言葉だけです。

人間の信仰は、

それが説教者の話や人間の理解に基づくものであるかぎり、

確固とした基盤をもつものではありません。

信仰は

神様の御言葉そのものを基盤とする場合にのみ堅固なものとなるのです。

御言葉にしっかりと碇を下ろした信仰は崩れることがありません。

 

いまイエス様は栄光に輝く天国におられますが、

それと同時に私たちの只中にもおられるのです。

聖書の言葉はイエス様御自身の御言葉であり、

聖書を読む時に私たちはイエス様の御声を聴いています。


説教者の巧みさや熱心さなどは決して信仰の基盤にはなりえません。

御言葉において働かれる聖霊様だけが確信を与えてくださるのです。

信仰は人間の宗教性にではなく神様の力に基づいています。

 

御言葉を聴く時に私たちはイエス様を観ています。

このように福音は

たんに言葉としてではなく御言葉の中にある神様の力として

私たちのところにやってきます。

こうして信仰は成長し強められていくのです。

 

(祈り)

主よ、命を与えるあなたの御言葉を聴いて

その中に堅く留まることができるように、

どうか私たちを助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「ヨハネによる福音書」42842