2024年11月28日木曜日

「力なき者に力を」「箴言」11章13節より「中傷する者」

「中傷する者」

人を中傷して歩き回る者は秘密を言いふらします。 

(「箴言」1113節より)

 

「黙っているべきことを言いふらしたい」

という罪深い欲望が多くの人にはあります。

家庭には他人に話したくないような内輪の心配事がよくあるものです。

気が緩んでいるときに家族の誰かが

それを信頼できるはずの友人に打ち明けてしまう場合もあるでしょう。

そして、この友人は信頼を裏切って、

それについて公けに噂話をしたりします。

これは聖書が警告している罪です。


「民の間を、人を中傷して歩き回ってはならない」

(「レビ記」1916節より)。


皆さんの中には

「隣り人について偽証してはならない」というモーセの第八戒を

覚えておられる方も多いのではないでしょうか。

 

中傷者を支配しているのは真理の御霊ではありません。

ある人々の秘密をもらす中傷者には彼らに対する愛が欠けています。


「霊に忠実な者は事を隠します」

(「箴言」1113節より)。


愛は多くの罪を覆います。

しかしまた愛は中傷の罪を叱責するのです。

 

大いなる中傷者であるサタンは

神様の御前でキリスト信仰者たちを絶えず批判し責めて続けています。

しかし、私たちには

さらに大いなる応答者なる主イエス様と

弁護者なる聖霊様が共にいてくださいます。

ですから、

私たちもまた「隣り人の弁護者」となるべきではないでしょうか。


罪を弁護することは許されません。

しかし、人が罪を犯してしまったならば、その人を抱き起こしましょう。

また、隣り人を偽りの告発から弁護し、

物事をできるだけ好意的に説明するようにしましょう。        

 

(祈り)主イエス様、

あなたは私たちの欠点を容赦し、

私たちの間違いを正してくださいます。

私たちもそれと同じようことを隣り人たちに対して行っていけるように、

どうか助けてください。

話すべき時に話し、黙すべき時に黙すことができるように、

どうか助けてください。アーメン。

(関連聖句)「ヤコブの手紙」3510

2024年11月15日金曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」10章42節「地を受け継ぐ柔和な人たち」

 「地を受け継ぐ柔和な人たち」

 

私の弟子であるという名のゆえに、

この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、

私はあなたがたに確言しますが、

決してその報いからもれることはありません。

(「マタイによる福音書」1042節)

 

勇気を持って立派に真理のために証した、

神様のために働いた人々のことを考えると、

私たちは自分のことをまったく役立たずのように感じてしまいがちです。

マリアのように正しく、

パウロのように一心不乱で、

ヨハネのように愛を持ち、

ルターのように勇気がある者に、

私などがどうしたらなれましょうか。

 

神様のために働いている人々の中には

「地を受け継ぐ柔和な人たち」(「マタイによる福音書」5章5節)、

周囲から少しも注目されない無名の人々もいることを

ここで思い起こしましょう。

彼らの奉仕の活動は神様の御前では大変高く評価されています。

神様は彼らの面倒を懇切丁寧に見てくださっているのです。

 

彼らは小さな事にも忠実な信仰者です。

日々、彼らは実にささやかなやりかたで主イエス様への愛を示してきました。

彼らはイエス様の中に彼らへの罪の赦しを見出しており、

「神様の子ども」としての霊をいただいているからです。

彼らは大きな贈り物をすることはできませんが、

奉仕することはできます。

彼らは静かに祈り、他の人々を励まします。

暖かい握手や小さな奉仕も

「天の御父様の報いからもれることがない、冷たい水一杯」の奉仕なのです。

 

「地を受け継ぐ柔和な人たち」、

神様の聖なる人々は

子どもの信仰をもっており、

キリストの愛を周りに広げていきます。

彼らは星のように輝く存在なのです。

 

(祈り)主イエス様、

一般の人々の目にはそれほど重要には見えない職務を

あなたが私に与えてくださる時にも

私があなたにへりくだり喜んでお仕えすることができるように、

どうか助けてください。アーメン。

(関連聖句)「マタイによる福音書」253440

2024年11月7日木曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」14章18節「あなたはひとりではありません」

「あなたはひとりではありません」

私はあなたがたを捨てて孤児にはしません。

あなたがたのところに帰って来ます。 

(「ヨハネによる福音書」1418節)

 

この世には孤独な人が大勢います。

大群衆の中にいると、ひときわ孤独感が強まります。

都会には誰からも相手にされない人たちがいます。

死の恐怖が孤独を生みます。

罪を犯した者はしばしば非常に孤独です。

周囲の人々から避けられるようになる場合にはいっそうそうなります。

試練や重責から来る孤独もあります。

結局のところ、神様と共に歩まない人は誰であれ孤独なのです。

 

イエス様も荒野で試みを受けられた時に孤独を経験なさいました。

ゲッセマネの園でイエス様はたったひとりで苦闘されました。

しかし、イエス様は弟子たちに

「私はあなたがたを捨てて孤児にはしません」

とたしかに約束してくださいました。

 

イエス様はゴルゴタで神様に見捨てられた時に

最悪の孤独を実際に体験することになりました。

その時にイエス様はたったひとりで世の罪を担われました。

まさにそのおかげで

私たちはどんな時でも孤独に捨ておかれなくて済むのです。

私たちは「イエス様のもの」として、

イエス様のそばにいることが許されているからです。

 

今、イエス様は「御自分のもの」である人々と共に

世の終わりまでいてくださいます。

イエス様は御言葉と聖礼典の中に本当に存在しておられます。

たとえ私たちが日常で孤独を感じている場合であっても、これはたしかなのです。

 

私たちは試みを受ける時、ひとりではありません。

自分の重荷を担う時にも、ひとりではありません。

ですから、悲しみのせいで泣いたりもしません。

病の床にある時も、ひとりではありません。

死の瞬間でさえも、イエス様はあなたと共にいて、

あなたを御許に引き寄せてくださいます。

そうしてあなたはイエス様がおられるところに

いつでもいることができるようになります。

 

(祈り)主イエス様、

あなたが私たちと共に日々いてくださることを感謝します。

あなたに頼りきって目的地に着けるように、

どうか私たちに話しかけ、私たちを支えてください。アーメン。

(関連聖句)「ヨハネによる福音書」141619

2024年11月1日金曜日

「力なき者に力を」「ヤコブの手紙」4章6節より「高慢の罪」

「高慢の罪」

神様は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜ります。

(「ヤコブの手紙」46節より)

 

人を高慢にする理由はたくさんあります。

人生で成功すること、偉大な才能を持っていること、

また出自の素晴らしさも人を高慢にしてきました。

とはいえ、自分が裕福だからといって高慢になるというのも不可解な話です。

人がこのようになりがちなのは、

自分が高慢になることを許してくれる何らかの「正当な理由」を探し出してくる、

あらゆる罪の根源であり腐敗である「生まれながらの罪」(原罪)が

人間の中に染み付いているからです。

 

高慢の罪の特徴は自分自身を他の人々の上に置こうとすることにあります。

これは「私には他の人々が持っていないような特別なものがあるから

私は他の人々よりも優れているのだ」という考えかたです。

 

高慢の罪は自分が神様から賜物をいただいているのを忘れることです。

私たちの成功や才能すべては神様からのものです。

高慢さは本来は神様からの賜物であるはずのものを

さも元々自分のものであるかのように不当に主張します。

 

高慢になった人はその次には罪に躓きます。

人は高慢になると自分自身や他の人たちの人生をだめにします。

自己満足が強まり、

自分が正しいと思い込み、

神様の恵みから引き離されてしまいます。

神様は高ぶる者をしりぞけるからです。

 

高慢さを崩してくれる唯一の原動力となるのは、

神様の御霊が人に与えてくださる罪の自覚です。

私たちの高慢さのゆえに、

イエス様は人としての苦しみを受けるために

御自分を低くしなければなりませんでした。

イエス様がこの世に来られたのは

人から奉仕を受けるためではなく、

すべての人のために御自分の命を差し出すためでした。

「私は柔和で心のへりくだった者ですから、

(中略)あなたがたは私から学びなさい」

とイエス様は言っておられます

(「マタイによる福音書」1129節より)。

 

(祈り)神様、

私が逆境の時に落ち込んだり順境の時に高ぶったりせずに、

あなたが私にくださるすべてによってあなたを敬えるように、

どうか私を助けてください。アーメン。

(関連聖句)「フィリピの信徒への手紙」2111